第74話:新生のとき(14)

 男も女も、岩屋に暮らす者は入れ替わりに狩りへ出る。もういつ雪が降ってもおかしくない時期、溜め込む最後の機会とあってはなおさら。

 ゆえに全員の顔が揃うのは、晩の食事だけだった。リーディアは例外として。


「アテツ。決めたことがあるんだ」


 賑やかに最初の乾杯を終えたアテツへ、すぐに話しかけた。訪れて毎夜、あちらから話しかけてくれるのが常だったものを。


「──うん?」

「あのバカが。レオニスが、オレたちより五日も遅れるなんてあり得ない。捕まったか、怪我でもして動けないかだと思う」


 今日の獲物が云々、町の様子がどうこうと、ざわめいていた声が瞬間に消えた。誰も気にしないはずがないのだ。ウミドとて、二日目には遅すぎると歯噛みしていた。


「だとして、なんだ」

「教えてくれ。レオニスは、あんたたちや町の連中のために捕まったんだな?」

「そうだ」

「でもそのときの約束の、闘技場で百勝ってのは済んだ。レオニスがまた逆らうとしたら、あんたたちは困ることがあるか?」


 ウミドたちが、どうしてここへ来たか。誰にも話していない。

 話そうとはした。しかしリーディアのほうへ目配せで、首を横に振られた。


 それでもアテツは、突然のウミドの問いに問いを返さない。いつも決まって使う椀を、長めに傾けるだけだった。


「……ない。あったとして、文句は言わせねえが。ニコライ卿としてみりゃ、せっかくの小細工で不満を国王さまへ向かわせたんだ。そいつをふい・・にすることはなかろうよ」

「そうか、なら良かった」


 文句は言わせねえまでで、ウミドの望める最高の返答だった。それがどうした、などと急かされぬことも。


 アテツと、マーチと。火を囲む全員の顔を順に見つめた。

 それから視線を天に向ける。見えないはずの夜空が、無数の赤い星をまたたかす。岩に含まれるきらきらとした部分が、炎を撥ねさせていた。


「オレは闘技場に。スタロスタロに戻る」


 やはり誰も、なにをしにとは問わない。頭の上で深く息をする、アリサの気配がしただけだ。

 ただ、アテツの眼はウミドの脚を眺めた。動けぬ者が、とは問いたいらしい。


「なにができるって、はっきり考えてはないんだ。でもここで待ってるだけじゃ、レオニスを自由にしてやれない」

「まあ、そうだが」

「うん。だから、何人か手伝ってくれたらありがたい。三、四人。無理なら一人、スタロスタロまで運んでくれるだけでもいい」


 おぼろに考えたのは、医者のブラーチを頼ることだ。だが建物を移ってすぐに取り囲まれたのは、ブラーチの手引きだった可能性もある。

 けれどもあのとき、裏通りに潜めそうな場所はいくらも見た。


「そりゃあウミド、賢いお前さんにしては浅いこったな。そこらの崖から飛び下りるのと、なにも違わねえ」

「ああ、死んだって構わない。オレは元々、死んでるようなもんだ。あるのかないのか分からんっていうオレの命で、レオニスを助けてやれるならいいじゃないか。もしもできたらって、もしもを百回も付け加えるようなことでもな」


 どっ、とアテツの椀が岩の地面へ押しつけられる。太く噴く鼻息が、肉を炙る炎を大きく煽って思えた。


「おいアリサ、儂ぁ買いかぶってたらしい。この死にたがりのバカ野郎に、なんとか言ってやってくれ」


 顔を背けたアテツは、マーチに腕を伸ばす。すると心得て、よく焼けた山狗の肉が渡された。

 刺した串ごと食らうつもりか。そう見えるくらい豪快に、不機嫌にアテツは噛りつく。

 しかしその串から肉がなくなるまで、アリサの声は発せられなかった。


「アリサ、まさかお前さんもか」


 串をしゃぶりつつ、器用にため息を吐く。アテツに問われても、なおアリサは答えない。

 椀も肉も置き、じっと眼を瞑っていた。アリサもスタロスタロに戻るつもりと、それにはウミドが否を唱えなければならない。


「アリサ、ダメだ。お前はもう自由になっていいんだ。ずっと使われてきたんだろ? お前はニコライ卿ともレオニスとも、関わらなくていいんだ」


 単に力比べなら、ウミドよりアリサが勝つだろう。その上に、かたや足が使えぬとなると。

 不都合な事実には気づかぬふりで、ウミドは願った。少しずつ大きく、怒声に変わることには本当に気づかなかった。


「頼むから。お前に危ないことをさせちゃ、オレが困るんだ!」

「ウミドが? なんで?」


 ようやくの返事に、ウミドの喉が詰まる。

 答える言葉は胸に抱えていた。だが、言うべきでない。

 ──答えあぐねた沈黙を、終わらせたのはアリサ。なぜか、なにをか、口角を上げて「ふふ」と笑う。


「関係ないって言うなら、ウミドもでしょ。あんたはレオニスを殺すつもりで、それがどうして助けるなんて言うのさ!」


 笑みと笑声は、一瞬の幻と消えた。ウミドに限らず闘技場の誰もが馴染む、アリサの怒鳴り声に掻き消された。


「オレは関係ないなんて……いや。そうだ、オレがレオニスを殺す。だからほかの誰にも殺させない」

「どうやって? あんたは二度と歩けない。レオニスを殺すことも、救うこともできないってアテツは言ってるんだよ」


 分かっている。それでも、ここにはいられないのだ。いてはいけないのだ。分かれよと、ウミドは胸の中で猛り狂う。


「どうにかする。どうにかできなくてもいい。オレが死ぬとして、少しでもレオニスに近いところだ。虫けらみたいに潰される瞬間まで、オレはあいつを狙い続ける。それがオレの生きるしんだ」

「…………あんたって」


 続く言葉はなかった。アリサの口は僅かに動いたので、聴こえなかっただけかもしれない。

 だとして、罵倒に違いなかった。怒りと哀しみに潤んだ瞳は、いまだウミドを責めて見下ろす。


「あと。まあ、こいつはついでだけど。ニコライ卿にも教えてやらなきゃならない。どんなに戦がうまくても、思いどおりにいかないことはあるって」

「だから、どうやって」

「オレにはできないさ。でもあのバカなら、なにかしでかせ・・・・る。そのレオニスを救うのは、レオニスにはできない」


 どこまで行っても、理屈を問われれば答えられない。けれどどうしても、こればかりは譲れなかった。

 見上げるウミドと見下げるアリサと。睨み合いにやがて決着は訪れた。


「アテツ、あたしからもお願い」


 強く額を叩き、頭を抱えるようにしながら。アリサはアテツに向いた。


「このバカの言うとおり、何人か手伝ってほしいの。ああでも、あたしも行くってところだけは違うけど」

「いや、アリサ」

「あたしのしんは認めないとか、言わないよね」


 さっと。まばたきよりも速く、睨む眼がこちらへ戻った。

 これにはさすがに、とウミドは口を噤む。


「分かった。儂らの息子をそうまで想ってくれるなら、腹ぁ括る。儂と何人か、どこまでも付き合わせてもらおうとも」


 何人か。言って見回すアテツに従い、火を囲む者らは順に手を上げた。一人、二人、三人──岩屋に住む三十人余りがすべて。


「おいおい、これじゃ多いくらいだ。隠れる場所にも困るだろうよ」


 ずずと鼻を啜り、アテツは椀を呷る。

 と、マーチが火の前を離れた。物を保存するほうの横穴へ向かい、なにやら壺を両手で抱えて戻る。


「あんた。こういうときに飲むもんじゃないのかい?」


 蓋をした布が外されると、強烈な酒気が漂う。アテツは「みんなに飲ませてやってくれ」と頷いた。

 が。最後に自身の番となって、傾けられた壺を押し戻す。


「あの日から今日まで、せっかく断ったんだ。飲むのは息子と一緒にするさ」


 髭を伸ばし放題の、歳より老けて見える皺の多い男を。マーチは抱きしめた。

 ふくよかで柔和な風貌の女は、連れ添う夫の唇を塞ぐ。長く、長く、「殺す気か」とアテツが逃げ惑うまで。

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