第5話:遊牧民の少年(5)

 蹄の音が遠ざかり、やがて聴こえなくなった。残った大人たちの呻く「ひどい」「どうしたらいいの」という声も薄れ、やがて怯えたような風の音だけが残る。


「……母ちゃん」


 繋いだ手を少し引っ張り、ウミドは囁いた。ふと気づいたことを問うために。


「敵って、なに」


 人間が恐れるべきは、ハイエナや熊といった肉食の獣。大鷲が山羊の仔を連れ去ることもある。

 日が暮れて後は一人で出歩かぬこと。寝ずの番は火を絶やさぬこと。いざとなれば山羊狩りの遊戯ブズカシの心意気で踏み潰すこと。

 外敵には、そう対するべしと教わってきた。ほかに病もあるが、それは運の領分。


 しかしハイエナは、人の住み家を燃さない。

 あれは間違いなく人間の仕業で、そんなことをしでかすのは誰か。ウミドには心当たりがなかった。


「前は、私がウミドくらいのころだったの。だからもう来ないと思ってたんだけど」

「誰が? どこから?」

「たぶん、スベグの向こう。小さな国が、たくさんあるんだって」


 国とはなにか、ウミドには正確な知識がない。自分たちもなんとか・・・・いう王国に属しているとは知っていたが、王国がどういうものか考えたこともなかった。


「あっちはね、雪が降るらしいの。寒くて、畑を作っても育ちが悪いそうよ。それで少しでも豊かなところを襲って、言うことをきかせるの」


 さっぱり分からないと顔に出たのだろう、母は続けて話してくれた。それでも、やはり分からなかったが。

 畑に触れたことはないけれども、なんとなくどういうものか分かる。スベグの民は、なにもかもをスベグの山々が与えてくれて、作る必要がない。


 星明かりに、稜線を見上げた。東も西も果てしなく伸び、世界を塞ぐ壁のようなもの。この向こうがあるとは、想像もしなかった。

 冬、ウミドは達したことのない高いところから、父が雪を持って帰ったことがある。あんな冷たい物が住む場所へ降り注ぐとは、どんな地獄かと震えた。


「前はどうなったのさ」

「今と同じ。ウミドやシャーミーのおじいちゃんたちが追い返したわ。百人くらいも居たそうだけど」

「そうか、それなら大丈夫だね」


 父は強い。誰かと争う場面に遭ったことはないが、そのはずだ。仲間同士、遊戯で競い合いはしても、カシムの言うことはみんなが聞き入れる。

 だから、とウミドは安堵の息を吐いた。母も力強く、手を握ってくれた。なぜだか妙に汗ばんでいたが。


「雁首揃えて、いつまでも見ていてもしかたがない。女と子供は寝ておくがいい。住み家を移すのは持ち越すとしよう」


 同じ集落で最も年長の男が、やがて言った。病や事故で四肢のいずれか、あるいは目を失った男が居残っている。寝ずの番くらいはやるからと。


「戦士らが戻るのは朝にもなるだろう。そのとき女がみな寝こけて、メシも食えぬでは冴えんからな」


 そのとおりだ。ウミドにも、疲れきった父から馬の世話を奪うくらいはできる。異論を唱える者はなく、ウミドと母も天幕へと戻った。

 途中、シャーミーの母と祖母を見つけたが、兄貴分と三人だけだ。

 さすがにこれから謝りに行くのは憚られた。カシムたちが戻って腹を満たせば、休息となるはず。そのときでいい。


 母はウミドを先に寝かせ、粥とパンと燻製の山羊肉の準備をした。ウミドも眠る恰好をしただけで、母が横たわるまで眺めた。

 いつもと違わぬ就寝の頃合い。誰かが家人を案じて嘆く声など聴こえたが、それも失せる。

 少なくとも大ネズミやハイエナには、人間の事情など関係なかろう。だというのに、今宵は物音一つとして聴こえなかった。

 微かに啜り泣くような風の夜が過ぎる。




 ──遠く、蹄の音が耳に届いた。

 結局、ウミドは眠れなかった。母も数えきれないほど、寝返りを繰り返していた。

 ほんの一瞬、目を閉じたあとに意識の遠退いた感覚はある。却って今、全身が重く鈍いけれども。


「父ちゃんだ」

「……うん」


 声に出すと、母もすぐさま答えた。どうも元気なく聴こえるのは、やはり寝不足のせいだろうか。

 だが起き上がれば、母は速やかに動いた。腰に紐を結ぶのもやり直していて、あせりすぎというくらいに。


 母と二人、天幕を出たところでシャーミーの母と出くわした。蹄の音のするほうを、伸び上がったり屈んだりで窺っていた。


「戻ってきたのよね」

「そのはずよ」


 そうだ、だから迎えに行かなければ。なかなか進もうとしない母親二人に、ウミドはやきもきと足踏みをしてみせる。

 そのうち兄貴分も出てきて、これで行けると駆け寄った。


「母さん」


 目の前へ立ったウミドに、兄貴分は視線を分け与えない。なぜだか食いしばったように、顎を力ませて喋るのが奇妙だ。

 もう一つなぜか、棍棒を握っている。

 シャーミーの母が頷き、ウミドの母の手を引いた。ウミドの母も、ウミドの手を引いた。


 天幕の中、シャーミーが居る。彼女らの寝起きする住み家なのだから当然で、その祖母と抱き合うように座っていた。

 母に引かれ、すぐ脇へ腰を下ろす。父を迎えに行かないのか。謝る前のシャーミーと、これほど近くへ居るのは気まずい。

 まるで方向の違う二つを考え、ウミドは戸惑った。そのときだ


「我らはラーシャ帝国が南方を預かる貴族、ニコライ卿の兵なり! 恨みはないが、この村を滅ぼすこととする!」


 ウミドは永遠に忘れられぬ声を聴いた。

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