第4話:遊牧民の少年(4)

 スベグの山々を茜色が染めていく。もとより赤い山頂が、陽の光を結晶させたかに透きとおる。

 およそ毎日の景色だが、ウミドは目を向けずにいられない。この年、この草地で過ごす最後の夜前でもあって。


「ヴォォィ、ヴォォィ、ヴォォィ──」


 山羊との対話の声を、大人たちが発する。ウミドも十分でないながら、同じく。

 声と言って、普段の会話とは違う。自身の口と鼻、それから喉を笛と考えて息を抜けさす。すると舌を動かしての言葉と異なる、低く強い音色が生まれた。


 散らばって草を食む山羊たちが、のそのそと足を動かし始めた。何人かの男が馬に乗り、迷子がないか念のために駆けていく。

 山羊の行列がなんとなく作られ、彼らの眠る天幕へと進んだ。その間にも陽は落ち続け、やがて夜の藍に変わる。


 誰も特段に断りはしないが、今日は総出での夕食だろう。そこらじゅうから枯れ草や枯れ茎を集める作業は、ウミドが最初に手をつけた。

 あれからシャーミーを見ない。天幕に居ると思われたが、どうしたかと問われるのを恐れてたしかめられない。


 寂しいのは分かる。シャーミーと話したあと、ウミドも具体的に思い浮かべた。

 毎朝、おはようと言えば返される、おじさんの屁が聴けなくなる。おばさんも兄貴分などそっちのけでお代わりは要らないかと、問うてくれなくなる。


 ──しかし今まで、いくらも重ねてきたことだ。

 シャーミーと一番に仲のいい女の子も三、四年前に移ってきた。

 別の組へ移った者と会ってならぬ、などという掟もないのだ。その気になれば、いつだって会える。


「その気になれば、か」


 西と東の尾根の距離がシャーミーにとってどれほどか。もう少し話してみようとウミドは思う。

 宴の準備もあらかた終わり、大きな火が点けられた。丸焼きの山羊が食べごろには、きっと出てくるはずだ。


「あれ、父ちゃん。もう骨を外すのか?」


 自身の天幕へ戻ると、父は足場に乗っていた。

 天幕は弓なりに曲がった木の支柱を、三十二本も組んで円形に支える。草地を移るなら崩さねばならないが、まだ今晩の屋根が必要なのに。


「今日はこのまま、風が弱いらしい。最低限だけ残して、外せるやつは先に纏めてやろうって魂胆さ。明日が楽だからな」


 たしかに既に外されたのは一本おきで、それで天幕が倒れそうとは見えなかった。

 母も頷き、四本ずつを紐で縛る。一本は細くとも、束ねればウミドの脚より太い。明日はこれを、父と母とウミドと馬で運ばねばならない。慣れていても「ふう」とため息は吐きたくなった。


「隣も?」


 幕の向こう、シャーミーの居るほうを見る。あちらは五人だが、二人は支柱を持つ力がない。


「ああ、たぶんな。どうかしたのか」

「うん。シャーミーが」


 なぜあんなにも悲しい顔をしたのだろう。ウミドのせいとは分かっても、どこがどう悪かったか見当がつかない。


「なんだ。また怒らせたのか」


 父なら。あるいは同じ女の母なら、答えが分かるかも。謝るなら、理解して謝ったほうがいいに決まっている。

 瞬間まで、相談しようと思っていた。しかし翻した。

 そもそもを言えば、父や大人たちの決めごとが原因だ。もちろん誰も悪くはないけれど、シャーミーは相談したことを嫌がるかもしれない。 


「うん、まあ。でも大丈夫だよ」

「そうか? なにがしんか分からんが。すぐに許してもらったほうがいいときと、ちょっと時間を置いたほうがいいときがある。そこのしんは間違えんようにな」


 ほっとさせてくれる父の苦笑いを、「あなた」と母が横から引っ張って消した。すぐに父も察した風に咳を払う。


「ああそうか。今日ばかりは、急いだほうがいいかもしれんな」

「うん、そう思う。晩メシのとき話すよ」


 再び浮かんだ父の苦笑は、苦味が九割に増した。

 責めるつもりも理由もない、などと声に出しては嘘になりそうだ。ゆえにウミドは、首を小さく横に振って見せる。


 父は見下ろす恰好のまま、しばし動かなかった。動いたのはウミドの腹が空腹を訴え、噴き出してから。


「ウミド」


 力強く肩を抱き寄せられ、共に天幕を出る。横目に隣の天幕を見たが、誰か居るか居ないかも窺えない。

 火のところへ行って、居なければ戻ってくればいい。そう決めて十歩も進んだか。


「火だ!」


 誰か叫んだ。肩をつかむ父の手も、ひくと動く。

 火はある。これからみんなで囲み、ご馳走を食らうために。


「大きい、燃えてる!」

「炎だ! 焼かれてる!」


 どの声も穏やかとはほど遠かった。見上げれば父の視線も、なにをか射抜かんばかりに鋭い。


「敵襲だ!」


 それが極めつけだったらしい。父は母にウミドの手を握らせ、一人走った。ほかの男らも同じ方向へ急ぐ。

 ウミドは母を連れ、歩いて追った。集落のほとんどが集まる中、山羊を焼く火は白い煙を吐くのみ。


 誰も遠くを見据えている。額に手を翳し、あるいは口を覆い、いずれも苦痛めいて顔を歪ませ。

 倣って見れば、遥か夜の彼方に点がある。小さな赤い光が生きたように揺らめくのは、それが炎だからだ。


「スベグの戦士らよ、武器を取れ!」


 ウミドにとって、最も親しい男が叫んだ。カシムの呼びかけに地響きのような声が返る。

 大人の男たちはただちに各々の天幕へ戻り、馬に跨った。それぞれの手に、普段は使うことのない大きな鉈や棍棒を携え。


 母もほかの女たちも誰一人として、「あなた」と引き止めるような声を発しなかった。

 父カシムと男たちは、あらかたの人数が揃い次第に駆け始めた。一頭の山羊を追うのと、まるで同じく。

 行く先、盛る炎の方向には、同じスベグの集落がある。

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