第3話:遊牧民の少年(3)
「どこに行くんだよ」
何十歩かまでは黙って従い、しかし止まる気配のなさにウミドはたまりかねた。問うたところでシャーミーが足を止めて答えるには、さらに三十歩を必要としたが。
「別に」
いや返事ではあっても、返答ではなかった。振り向いた目もウミドにでなく、その後方へ放られている。
倣って見れば誰も遊戯にかかりきりで、こちらは視界の端にも入っていないだろう。もし誰か呼ぼうと言うなら、歓声や気合いに負けぬ声量が必要だ。
「なんだ? ほかにも要るのか」
「ち、違うわ」
兄貴分でも女の子でも、代わりに呼んできてやる。指さしたが、シャーミーは慌てた声でウミドの手を引き、自身のほうを向かせた。
「じゃあ、どうすりゃいい?」
草地を移る都度。シャーミーと兄貴分、両親と祖母の五人の天幕は、ウミドのそれと隣に張られた。
母親同士の馬が合うようで、共同で作った夕食を囲むこともよくあった。
子供の三人が並んでも、シャーミーは兄貴分の向こう。ウミドと話すのは、ほぼ兄貴分だけだ。ここまででも一度の会話量としては多い。
「どう……」
「どう?」
恥ずかしがりなのは知っている。ウミド以外の男の子の前でも、今と同じく声を詰まらせる光景は珍しくない。やっと聞けたと思うと、あっちへ行けなどときつい言葉なのが困りもの。
「よ、よ、よ──よく勝ったわね」
「お。褒めてくれるのか? ありがとう」
「ち、違うわ。あんな、今にも馬から落ちそうになってってことよ」
「あはは。恰好悪いよな」
わざわざ連れ出しただけあって、悪口を聴かされるのではないらしい。伏し目がちだが、ものを言う瞬間だけは視線が上がる。
「そこまでは言ってないでしょ」
「そうか、ありがとう」
普段に比べれば、絶賛と言って良かった。だから素直に礼を言ったのに、返礼は「うるさい」だ。
これで終わりか。だとして、すぐにやるべきこともない。手首をつかまれたまま、見るとはなしにシャーミーを。その向こうの平原を眺める。
濃い赤茶のつむじが、小さく小さく震えていた。具合いが悪いようには見えない。寒いのもあり得ない。
小便を我慢しているのか? 以前、すぐにしてこいと言ったウミドは頬を殴られた。
「ええと、なにか我慢してるんなら遠慮するなよ」
「我慢?」
「違うのか」
「……ウミドのくせに」
首を斜めに振り下ろし、シャーミーは呻く。肯定か否定か、深く俯いただけか、どれとも区別がつかなかった。
「んん?」
機嫌を悪くさす、なにかをしたろうか。考えようにも材料が乏しく、待つ以外をウミドはできない。
すると次第に、シャーミーの息が荒くなっていった。激しくはないが、熱にうなされるように。
「じゃあ訊く。どうしてよ」
「なにが?」
「どうして西の尾根なのよ」
カップにいっぱいも唾液を飲みこんだ風に喉を鳴らし、シャーミーは指を突き出した。スベグの山々で最も高い、主峰から下る尾根に向け。
ただ西の尾根と呼ぶのはそうだが、どうしてとは意味が分からない。
「ええと──」
「あんたのとこは西の尾根に移るんでしょ」
「そうなのか? そういうのは父ちゃんが決めるから、オレは知らない」
「なんで知らないのよ、あたしは東の尾根なの!」
ああ、と。ようやく頷けた。主峰の東隣の峰から下る尾根にも、スベグの民が移り住む草地の候補がある。今回の移動で、シャーミー親子はそちらへ行くのだろう。
「なんでって、大人たちで決めたことだろ。シャーミーの父ちゃんも話し合いしたはずだ」
「そんなこと分かってる。なんであんたは知らないのかって訊いてるの!」
そうだったか。生まれてこのかた、同じ集落で暮らしてきたのに。なぜ次は違うのか、とウミドは理解していたが。
どうであれ子供に口出しする権利はないけれど。
「オレもシャーミーも子供だからな。スベグのみんなが一度に襲われないようにって、なんだかそういう理由なんだろ」
野獣や疫病、外敵に襲われたとき。集落が一つであれば、全滅の可能性が高まる。
ゆえにスベグの民は十数家族ずつ、四つの集団に分かれて移動を繰り返す。それをときどき、家族単位で交換するのだ。人も山羊も、血を混ぜるために。
「西と東ったって、目に見える距離じゃないか」
次に東の尾根へ行く集落が今どこへあるか、だいたいの方向でしか指させない。それが隣の尾根であれば、その気になれば会話も不可能でないのだ。
「そういう問題じゃない。あんたたちにパンを分けてやりたくても、持っていけないのよ」
「あー、おばさんのパンはうまいなあ」
芋の粉と麦の粉を練って焼くパンは、作る者ごとに味が異なる。決してウミドの母が下手なわけでなくとも、それは大問題だと思わせるほど。
しかし耳に聴こえた、噛みしめた歯の滑る音が、別の問題を認識させた。
「バカ」
シャーミーの瞳が濡れている。琥珀色の奥底から、今にも溢れる勢いで湧き出そうと。
けれど、まぶたという名の蓋が閉じて。顔そのものも空の彼方へ向き、結末は知れない。
「シャ、シャーミー? どう……あの、ええと、その。うん、そうだ、オレが行くよ。母ちゃんの織物と交換しに」
一つの谷が隔てる尾根を、子供だけでは行き来できない。だがカシムなら、父なら一緒に行ってくれるはずだ。シャーミーに悲しい顔をさすことは、きっと
咄嗟に最大限の譲歩を、ウミドはひねり出した。だというのにシャーミーの返事はなく、身動ぎもしない。
「な、なるべくたくさん行くからさ」
「そんなの無理に決まってるじゃない。山羊の世話、ちゃんとやりなさいよ」
また次の草地の移動まで、どれくらいの頻度で行けるか。できれば二度、三度は無理かなと思う。
それも父に頼んでみよう。と必死に考えたのに、シャーミーは無理と決めつけた。
聴いたことのない平たい声が、触れれば割れそうに硬かった。
ウミドは無言で見送る。ゆらゆら揺れながら、住み家へ戻るシャーミーを。
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