第63話:新生のとき(3)

「国、だったんだよな」


 国とはなにか。ウミドには、いまだ正確な知識がない。しかしニコライ卿が最後に攻め落とした町とは聞いた。

 つまりスベグと同じようなもの。自分にとって、スベグが国だったのだろうと考える。


 鍋をかき混ぜ、上げた杓子へ向く眼は片方しかない。どんな思いでここにいるか、労る心持ちで問うた。

 しかしリーディアの返答は、いつもの笑みでひと声。


「ええ」


 と。

 ニコライ卿のバカがとでも言ってくれれば、そうだそうだと応じられたのに。

 こうなると、次にどんな言葉を続けて良いやら見失った。無言のまま、捜す間が無情に重みを増していく。


「あたしの知らない話してる」


 ウミドでなく、リーディアでもない声。それはもちろん、脇で眠っていたはずのアリサ。

 全身で伸びをして、「あ痛たた」としかめる顔は寝ぼけ眼に違いなかった。


「訊かれなかったから」

「そりゃまあ、なんとなく察してたけど。訊けないよ」


 起き上がったアリサに、リーディアは椀を差し出した。ちょうど頃あいらしい鍋の中身を、たっぷり注いで。


「アリサよりオレのほうが早く起きるとはな。よく眠れたんだな」


 会話を引き取ってくれて助かった、とは言えず。闘技場の誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで働いていたアリサを労う。

 疲れさせたのはウミド自身だ。


「うん。リーディアとあたしと、どっちかの料理がおいしいって言ったら引っぱたこうと思ったんだけど」

「──へえ」


 アリサのほうが優れていると言ってもダメだったらしい。

 素知らぬ風で答え、もうもうと湯気の上がる椀を噴く。そっと口に含めば、草の香りが懐かしい。


「ねえリーディア、嫌なこと訊くけど」

「構わない」

「レオニスのいた国ってことは、今はニコライ卿の町だよね。そんなところへ行って大丈夫なの?」


 ああ、そうなるのか。

 少し考えれば分かるが、ウミドは気づいていなかった。


「ええ、大丈夫。レオニスも間違いなく向かうはず」

「どういうことか、教えてもらえる?」


 アリサの不安ももっともと思う。だがリーディアは温かい汁を含み、ほうっと大きく息を吐いた。それだけで、なんの心配も要らないと言われた気がする。


「レオナードはニコライ卿の持つ町でも、北西の端になるの。高い山が近くて、行こうとしてるのは山の上の集落のほう」

「町じゃなくてってことね。リーディアのふるさととか?」

「いいえ、レオニスの」


 レオニスの故郷で、それは山。

 聞いてウミドの胸が、ざわめかぬはずがなかった。思い浮かぶのは、燃え上がるスベグの民の住み家。


「レオニスの?」

「私は町の育ちなの。町も元の国王がそのまま領主にされたと聞いたから、行っても平気かもしれないけど」

「なるほど。じゃあレオニスの家族のところで、匿ってもらえる約束があるのね」


 スベグが所属していたはずの王国から、兵が派遣されたのを見たことがない。

 レオニスの故郷がそれと同じで、住む者が協力してくれるのなら、たしかに頼る手はある。

 頷くアリサに倣い、ウミドも首を縦に振った。しかし当のリーディアの首肯は、曖昧に斜めへ動く。


「家族──まあ、そうね」

「違うの?」

「レオニスにとって、家族よりもっと濃い人たち」

「よく分からないけど、リーディアが信用してるなら」


 アリサの念押しに、リーディアは大きく頷いた。


「それだけは間違いないわ」

「じゃあ信じる。ね、ウミド?」

「ああ。ほかにって言われても、オレが頼れるのはアリサとリーディアだけだしな」


 なんとも情けないことだ。

 困ったとき、どうやって乗り越えるかのしんは父からいくつも教わっている。

 けれどもその中に、自分が立って歩くこともできないとき、というものはない。

 強い女二人を目の前に、ウミドは己の脚を握り潰さんばかり力を篭めた。


「行き先の分かったところで、なにか捕まえてくるね。リーディアのスープはおいしいけど、肉もパンもないんじゃお腹がもたない」

「あっ、私も」


 小屋に置かれた細い棍棒を手に、アリサは出ていく。同じく縄を解きながら、リーディアも足を引き摺っていった。「待ってて」と、優しく叩かれた肩がひどく寒々しい。

 まだ湯気の残るにも拘らず、啜ったスープが雪解け水に感じる。


 音を立てぬよう、腰の後ろのナイフを抜いた。軽く握り、レオニスを見倣った剣筋を宙になぞる。

 足の踏み込み、腰の捻りがなくては、遊戯にもならない。


 小屋の外で、今にも追手に見つかったら。

 ウミドにはなにもできない。試しに腕だけで摺り歩こうとしてみても、痛みで一歩の距離も進めなかった。


「ひっ、ひいぃぃ!」


 そんな姿を見ていたかに、女の悲鳴がした。

 おそらく声の主はリーディア。十歩かそこらの、すぐ近く。


 ウミドは地面にナイフを突き立て、身体を前に進める。全身、一斉に杭を打たれてもこうはなるまいという激痛を堪え、ミシミシと奥歯が軋む。

 進んだ。が、半歩の距離。こんなことでは、また日を暮れさせても助けに行けない。いっそ転がったほうが早いだろうか。


「あはははは」


 思いつきを実行に移す直前。先の悲鳴にそぐわぬ笑声が聴こえた。

 これはアリサ。いや小さく、くすくす笑うリーディアも。


 なにがあった?

 どういう事態になれば、悲鳴のあとに笑えるか。ウミドは呆然と、声の方向を眺める。

 それから女二人は、かしましく戻ってきた。


「だ、だって毒があるって」

「ないらしいよ。あたしもウミドに聞いたんだけどね」


 その会話をしか聞かぬウミドに、「だよね」とアリサは手を突き出す。握られるのは、剣闘士をひと咬みで殺すと悪名高い大ネズミだった。

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