第64話:新生のとき(4)
這いずる姿を、ウミドは悲鳴に驚いて転んだことにした。すると律儀に「ごめんなさい」などと謝るリーディアに、赤面しきりとなったが。
気まずさをごまかす生贄には、ボルムイールが思い浮かんだ。
「ええと、あの匂い。大ネズミを出すとき、戦う奴が甘い匂いをさせてたよな。あれ、なんなんだ?」
ねっとりと鼻に纏わる香りは、鼻腔の奥へしばらく残る気がした。最近では鼻に栓でもしていようかと考えていたが、もうその心配はなくなった。
「ああ、あれね。大ネズミの試合の二、三日前からかな。対戦する人にお酒を飲ますんだよ、毎日」
「お酒?」
答えるアリサに、リーディアも首を傾げた。
「うん。なんだか知らない名前の草とか木の実とか、たくさん漬け込んだ特別なやつみたい。メシと一緒に飲ませろって、あたしが持ってってた。試合のすぐ前も飲ませてたらしいけど」
「あぁ……」
しまった。ウミドは歯噛みする。
大ネズミが、進んで人を襲うことはない。少なくともスベグでは一度もなかった。
しかし現実、闘技場では毒ネズミと怖れられるほどとなった。それはほぼ間違いなく、あの匂いのせいだ。誘われた大ネズミは、剣闘士の口や喉に喰らいつく。その隙間がなければ眼に、腋に、股に。
鋭い牙による傷が全身に及び、その全てから細く長く、血が噴き上がった。
到底、尋常な死に様とは言えない。遠目の客席から、大ネズミの毒と歓声が上がる。
その匂いの元となる酒を、アリサが運んで飲ませたとは。
「ええと──大ネズミは、すぐに血を抜かないと臭くなるんだ」
アリサは笑むでなく、いつもの素の表情と思えた。だがその裏は。
考えても真実は知れない。それなら今、見えている彼女の表情を信じるしか選択はないだろう。
一か八か、「貸してみろ」と手を差し出す。
「うん、どうやればいい?」
ためらうような間もなく、さっと大ネズミが渡された。
ほっと息吐くのを堪え、父に教わったとおりに顎の後ろへナイフを突き込む。
頬と頬をくっつけんばかり、アリサはすり寄って手もとを眺めた。ウミド自身を挟んで反対にはリーディアも。
剥いだ皮は衣服に使えるが、腐らぬようにするのは時間がかかる。そんな余計な話にも、女二人は熱心に頷いた。
ひととおりの作業を終えると、ウミドは詰めた息を入れ替える。ようやく大っぴらに、安堵の息を吐けた。
ただすぐに「ところでウミド、なんでナイフなんか握ってたの」と問われたけれど。
小屋を出たリーディアは、宣言どおり背中へ陽を浴びる方向に進んだ。
「私の歩けそうなほうへ行くから、遠回りになったらごめんなさい」
振り返って詫びる言葉に、アリサもウミドも揃って
暮れれば野営をし、次の日。中天を過ぎた頃あいには人の踏みならした道へ出た。「これはたまたまよ」と、リーディアも驚いたものの。
しかし道沿い、夕暮れ前に集落へ出くわして足を止めた。
付近で集めた木を組み合わせたような、あるいは自然の石をひたすら積んだような
ともあれアリサは「凄いね」と、リーディアを褒めそやす。
「ち、違う。本当にたまたま」
「あはは、そんなこと言って照れない」
たしかに偶然なのだろう。けれどもここまで三人ともが息を切らし、ほとんどの時間を無言で過ごしていた。
追われる身といえ、兵だの剣闘士だのの臭いのしない人里が、ウミドにはなにやらありがたいものと見える。
きっとアリサも、同じような感情でからかうのだ。
「どう思う? あたしらのこと、もう伝わってるのかな」
問いつつ、足が半歩前へ。アリサだけでなく、リーディアも。
「この道は闘技場と繋がってるのか?」
「いいえ。北も南も、しばらく山が続いていたと思う」
「じゃあ、まっすぐ山越えしたオレたちより先の奴はいないな」
繋がっているなら、立ち寄るまいと言うつもりだった。それなのにリーディアは繋がっていないと言う。
「もし、ウミドを乗せて運べる台車でも貸してもらえたら楽なんだけど」
これもリーディア。アリサは肯定も否定もなく、集落を眺める。
「アリサが楽になるならオレも嬉しいけど。そういうのは、お金ってのが要るんじゃないのか」
「ええ、そう。だから、もしもと」
食料は大ネズミを何匹も確保した。水は探せば、小さな沢くらいいくらでもある。それでお金もないでは、立ち寄る理由がない。
やはり迂回すべきか。
ウミドが言おうとすると、「ちょっと」とアリサの声。
「リーディア、あたしの腰を」
「なにかあるの?」
言われるまま、リーディアはアリサの腰からなにかを取った。握り拳ほどに膨れた小袋で、じゃらじゃらと金属の音がする。
中身を出したリーディアは「銀貨じゃない」と驚いた。
「もしかして、それがお金か?」
「ええ。これだけあれば台車も売ってもらえると思うけど」
けど、なんだろう。
首を傾げるウミドには答えず、リーディアはアリサへ問う。
「どうやって貯めたか想像もつかないけど、ここで使っていいの?」
「貯めたんじゃないよ。闘技場を出るとき、盗んだの。どうせ戻れないと思って」
盗んだ。ウミドには、また理解ができない。いや盗むことそのものは、まったく構わないと思う。
分からないのは銀貨とやらだ。
闘技場へいた六年余り、ウミドはお金というものを目にしていない。見ることすらないものを、どうやって盗むというのか。
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