第65話:新生のとき(5)
「……もし本当に使ってしまっていいなら、台車を買わせてほしいの。レオニスが早く着いたら、私たちを探すだろうから」
胸に両手を掻き抱く、リーディアの声は重い。これにはアリサのほうが、しきりに眼をまじろがせた。
「ええ? それで楽をするのはあたしだから、もちろんだよ」
落ちかけた陽が、リーディアの顔にだけ戻ったようだった。いつになく「ありがとう」の声も強く、却ってかすれるほど。
アリサの「いいってば」は、あからさまに照れていて、彼女は逃げるように集落へ足を動かし始めた。もちろんリーディアも、よく懐いた山羊のごとく着いていく。
本当にリーディアは。
そのあとに続くはずの気持ちを、ウミドはうっすら見ていながらもなかったことにする。
──近づいた集落は、道の左右へ交互に家が並んだ。集落を囲む、塀なども見あたらない。
スタロスタロのごとくであれば、息詰まって死ぬかもと思えていた。それでもスベグの広大さには、遠く及ばないけれど。
人の姿を求めて三、四軒を過ぎた。そこは交互に家の建つ規則を破り、なにもない空き地になっている。
と言って今は、数軒分の空間が人で埋められていた。中心にあるのは、馬に荷車を繋いだもの。
「隊商が来てるなんて、偶然ね」
「タイショー?」
「見たままよ。大きな町から、食べ物に服、薬草や道具を運ぶの」
「ああ、それならスベグにも来てた」
スベグでは採れないもの、作れない物。あの気のいい商人たちは、代わりにスベグの山羊や天幕を持ち帰った。どうもここでは、お金を使うようだが。
ウミドが問い、リーディアが答える。その最後に「へえ」と加えたのはアリサ。
「アリサも初めてか?」
「うん。闘技場から出たこと、ほとんどないからね」
囁く声でのやり取りは、リーディアにも届かぬほどだったろう。小屋を出るとき決めたのだ、アリサは言葉を発せぬことにしようと。
「お、兄ちゃんたち。見ない顔だけど、あんたらも商人さんかい?」
中年の、
「いえ、旅をしている者なのですが。このとおり仲間が怪我をしてしまって、運ぶ台車でも融通していただけないかと」
「あらまあ、ほんと。そりゃあ、いけないねえ」
話すのはリーディア。小屋にあった布を頭から胸にまで巻き、左眼と傷を隠して。
ふくよかな女は「大丈夫かい?」と言葉を重ねながら回り込み、ウミドへ触れた。遠慮のない力加減に、悲鳴が堪えられない。
「
「あらあらそんなに? ごめんよ。そっちのお兄ちゃんも大変だね、負ぶさってるほうが大きいのに」
女はアリサを、お兄ちゃんと呼んだ。やはり小屋にあった、男ものの帽子と衣服を着た甲斐がある。ゆえに声が出せず、頷いて返すしかできないが。
「すみません。
「ああ、あんたたち苦労してるんだねえ。いいよ、おばちゃんが誰かに頼んであげよう!」
瞬間、怪訝にした女は、すぐにも泣き出しそうなほど顔を崩した。それから山向こうまで達するほどの声で叫ぶ。
「誰か、この子たちに荷車を売ってやってくれないかい!」
耳の奥が、きんと鳴る。直ちに「ど、どうもありがとう」などと言えるリーディアを称えねばならない。
商人も集落の者も、一様に手を止めて振り返った。ただ、売ってやろうという返答はなかなかない。仕事に使うのだろうから、それは困るに違いないが。
「んん、どこまで行くんだい?」
どれだけ待ったか。住人らを眺めていた、商人の一人が問う。先の女と同年輩に見えるが、剥き出しにした腕は傷だらけで筋肉の塊と言える。
「れ、レオナードまで」
「ふうん」
商人は十人ほどもいるようだが、この男が年長で偉いのだろう。引き千切ったかに不揃いのあご髭を撫でる間も、誰も口出しをしない。
「俺らは昨日の朝、南の町を出てきたんだが。途中の村で面白い話を聞いた。スタロスタロの闘技場から、百勝もした強え奴が逃げ出したんだと。そいつには別に仲間もいて、大怪我をした三人組だそうだ」
アリサの背中に、ぐっと力が入る。姿勢も僅かに低くなり、全力で駆ける準備だ。
リーディアの返答は、すぐでなかった。男をじっと見つめ返し、三つも数える間を置いて首を傾げる。
「たしかに私たちは三人です。でもそんなことがあったとも知らないのですが」
商人の男は、頬から喉へも大きな斬り傷の痕を残す。相当に古い傷で、今さら痛むはずもない。にも拘わらず、男の手がしきりにさする。
これは正体を察せられた。
そう判じたウミドは、アリサとリーディアを逃がす方法を考える。いや考えるまでもなく、動けぬ者を囮にする以外にはない。
自身を支えてくれる手を振りほどき、抜いたナイフを男に向ける。兵や剣闘士ならともかく、戦わぬ者の対応は遅いはずだ。
「……で、報酬は?」
「は?」
「報酬だよ。その負ぶさった兄ちゃんを、レオナードまで運びたいってんだろ?」
ここまでの意味ありげな態度はなんだったのか。リーディアも咄嗟に、丸くした眼をごまかせていない。
「え、ええ。そうですけど、闘技場のことは良いのですか」
「ああ。思い出してみりゃあ、男が一人に女が二人と聞いたんだった。それにお前らは、大怪我をした三人でもない」
切り抜けた、のか?
窺うウミドをよそに、言葉を失っていた住人たちも「なんだ」と胸を撫で下ろす。強張っていたアリサの背中からも、力が抜けた。
「疑いが晴れて良かったわ」
リーディアの差し出した小袋を受け取り、顔に傷の商人は「十分だ」と笑む。お前こそ闘技場へいたんじゃないか、と言いたくなるものだったが。
「今日はもう動かねえが、うちの荷車に乗ってきな。レオナードなら、十日とかからねえ」
「ありがとう、そうさせてもらいます」
差し出された手を、リーディアは両手で握り返す。顔に傷の商人は豪快に笑い飛ばし、か細い女の身体を揺らした。
「きっちり運んでやるから心配すんな。俺ぁイーゴリのクソ野郎が嫌いでな」
そう言いながら。
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