第67話:新生のとき(7)
「私の……」
結ばれたリーディアの唇を、荒い息がすぐにもこじ開ける。同じく眼は、来た道を下るほうへ向く。
夜闇の中、木々の間に間に街並みらしき色が覗いた。
それから次の声を聴くには、アリサが起き上がるまで待った。腰を上げたリーディアは
「行きましょう」
と、問いを忘れたように言う。
死んだのかと思うものの、それは以前から想像したのと同じ。できるなら答えてほしかったが、催促には強い言葉しか思い浮かばない。
「話すと長くなるの。それにウミドには呆れられると思うから。村へ着いて、ゆっくり。それでもいい?」
「あ──ああ、うん」
登るほうへ向きかけたリーディアが振り返る。眉根を寄せた顔がやはり青褪めていて、押して今すぐとまで言う理由はなかった。
再び歩き始めてすぐと言ってよいころ、リーディアは進む方向を真横へ変えた。
尾根から谷へ下るらしい、という予測は外れる。多少の凹凸くらいで、登りも下りもない。
その代わりに、鋭い棘で武装した低木の茂みへ向かっていく。「行けるの?」と、さすがのアリサも、目に見えて歩幅を縮めた。
「ええ、簡単よ」
声の細い返答を信じるには、なかなかの努力が必要だった。負われるだけのウミドさえで、アリサの飲みこむ唾の音がよく聴こえる。
月明かりでは、距離も読み間違えよう。アリサが慎重に近づくうち、リーディアの姿が掻き消えた。
「あ、あれ? リーディア?」
戸惑うアリサに、「ここ」と白い手だけが伸びて振られる。駆け寄ったそこに、苦しげながらも笑みを作るリーディアはいた。人ひとりの通れる隙間へ傷ひとつなしに。
まっすぐ切り揃えた風ではない。あくまでも自然に作られた空間という恰好だった。事実、リーディアが先導するのとは違うほうへも進める場所は見えた。
選ぶ道を知らなければ、決して通り抜けられない。
さもなくば低木をすべて刈り払うかだ。だとして、十人がかりで十日でも成し得ぬ広大さだったが。
低木の林を抜けた途端、アリサはへたり込んだ。ウミドを降ろす余裕もなく。
「やっと……? 坂じゃないのは楽だったけどさ」
ありがとうの言葉が、今にもウミドの口を衝く。行く先を岩が塞いでいなければ、きっと言った。
「行き止まりじゃない。それとも岩を登れって?」
岩の高さは、人の背丈の四、五人分。端は絶壁と呼ぶべき斜面へ突き出す。棘のない蔓と苔に覆われて滑りやすそうで、つかむ手がかりもこれと見えなかった。
投げやりな声も責められまい。体力を考えずとも、岩登りは無理だ。
「いいえ、着いたわ」
なにを言い出した。集落どころか、家も人の姿も一つとしてない。
問い返すアリサの「ええ?」は疲れ果てた。ウミドも同じ心持ちで問おうとした。
「どこに──」
人の気配。息を詰め、声を封じる。
大岩の陰、至極小さな物音。垂れ下がる蔓を掻き分け、闇に人の輪郭が見えた。
「リーディアちゃん、だね?」
「ええそうよ、おじさま」
かなり年配の声。名を呼ばれたリーディアは、怪しむ様子もなく人影へ近づく。
男も胸で受け止め、二人は抱き合った。
「死んだと聞かされたから」
「この通り、生きているわ」
リーディアは声を高く裏返し、けほけほと咳き込みもする。
よほど親しいのだろう。ウミドは握ったナイフの柄から、手を離した。
それからぞろぞろと、十人ほどが姿を見せた。一人ずつ抱擁を交わすリーディアに、誰もが「生きていて良かった」と喜ぶ。
なにもかも闇の中で、碌に顔も見えないけれど。
「あの二人は?」
じきに誰かが、ウミドとアリサへ話を向けた。
「仲間だ」
即座に答えた。
答えてなお、
「ええ、ウミドの言うとおり。色々あったんだけど、ウミドとアリサのおかげでここへ戻れたの」
「ああ、そうなのかい。まあまあ、それならみんなで奥へお入り」
言いつつ、年配の男は目の前へやってくる。途中、ウミドの負傷に気づいたようで、悲しげに髭もじゃの顔を歪ませもして。
「おぅい、怪我人だ。誰か手を貸せぇ!」
「おうさ!」
優しげな声が、きっぱりした指示を飛ばす。答えるのも、若くはなさそうな男ばかり。
だがさっさと板が運ばれ、乗せられたウミドは重みを失ったかに軽々と持ち上げられた。
「ほら、奥へ」
年配の男が最後尾となり、蔓の下をくぐる。どうやら出入り口は、苔を張り付けた板で塞ぐようだ。
「おじさま、レオニスは? 先に着いててもおかしくないのだけど」
「……あの子が? レオニスが帰ってくるのかい?」
「ええそう。闘技場というところで、ずっと闘って。やっと出られたの」
静かに告げ、リーディアはまた年配の男に抱きついた。
そうなると予想したのかもしれない。男は支えられてなお、岩の地面に崩折れる。
「ああ、知ってたよ。闘技場のことは知っていたんだよ。それでも儂らは、あの子を助けに行けなかった」
男は泣いた。
声を張り上げ、「おぅぉぅぉぅ」と泣き叫んだ。
「ああ良かった! 儂らの息子が帰ってくる! こんなに嬉しいことがあっていいのか!」
先を進んでいた者からも、泣き声が漏れる。誰かの持つランプが揺れ、山肌へ映る影が歓喜に沸き立つようだった。
「あんたら、嬉しいのは分かったから。早くおいでな」
奥から年配の女が顔を出した。男らのことを言えぬほど、頬を濡らしていたけれども。
「そうだ、怪我人がいるんだった。早く休ませてやらんとな」
「いや、オレはいいよ。ゆっくり泣いてくれよ」
儂らの息子。そんな言葉を聞いて、早くしろなどと思いもしない。
また笑わせるつもりもなかったが、年配の男は洟を散らして笑う。
「わはは、面白い子だ。傷によく効く薬がある、よく休んで食っておくれ」
男らの列が動く。大岩の裏、山肌を抉った空間は徐々に広くなっていった。
「息子のことも嬉しいが、リーディアちゃんだけでも生き延びてくれて良かったよ」
嬉しさのあまり、黙っていられない気持ちは分かる気がした。ただ、レオニスも生きているというのに、リーディアだけでもとは。
「私だけ……?」
当人の足が止まる。年配の男は何歩か行き過ぎ、慌てて戻った。
「ああ、そうだよ。リーディアちゃんは嫌かもしれんが、儂らには娘みたいなもんだ」
孫だろう、と茶々が飛ぶ。そうだったと男らは笑い合う。
リーディアは動かない。唯一、わなわなと震えた唇が、言葉を発するには隙がかかった。
「お父さまは」
「ん?」
「お父さまとお母さまは」
か細い声が、大量の水気を含んで震える。その意味をウミドには知れないが、年配の男はハッと口を押さえた。
だが睨むリーディアにうなだれ、男は声を絞り出した。
「国王さまは、処刑を……」
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