第68話:新生のとき(8)

 立ったまま、リーディアは気絶したのかと思えた。上げかけた手も踏み出しかけた足もそのまま、ぴたりと動きを止めたために。


「リーディア……?」


 男らは一人残らず、リーディアから目を逸らした。アリサが呼びかけるまで、誰も石像と化したように動かなかった。

 呼びかけてなお、気まずげに奥へ逃げる者が何人かあっただけだが。


「どうして──」


 しばらくといっていいほど。百を数えられるくらいの間を置いて、声を発したのはリーディア。


「どうして? 私が人質になればいいって。誰も傷つかないって!」


 か細い声が、より細く。鉄の針のように硬く鋭く、つかみかかる手という実態を伴い、年配の男の胸に浴びせられる。

 悲しいかな、男は揺らぎもしないけれど。


 答えなく、男の襟元をリーディアが引っ張るだけの時間が続いた。それがまたしばらくのあと、男はやっと言った。忘れていた呼吸を取り戻さんがごとく、啜るような長い息とともに。


「話そう。リーディアちゃんがいなくなってからのことを」


 ──ともあれ火の傍へ。奥へ進むのをリーディアも断らなかった。

 断るなどと難しいことは考えられまい。ウミドにはそうも思えた。


 大岩を潜り抜けた先、山肌が岩壁に変わった。住人らが抉ったか、もとよりそういう形だったのか、およそ平たい地面に屋根の張り出す恰好をして。

 丸太を繋いで板状にしたものが並べて立てかけられ、結果としてトンネル状になっている。これが彼らの住み家らしい。


「儂はアテツ。レオニスは父と呼んでくれる」


 年配の男は火に近いところへ腰を下ろし、アリサにも座るように言った。草を編んだ敷物も、別の男が渡してくれる。

 ウミドを乗せる板は、その隣へそっと置かれた。


 リーディアは先ほど顔を見せた年配の女と、もう一人同じ年ごろの女に支えられて歩く。「儂の女で、マーチだ」とはアテツ。

 それから一人ずつ、辺りに顔の見える二十人以上がすべて名乗った。とても覚えきれなかったが、あらためて問う空気でない。


「国王さまは、レオナード陥落の責を問われた」

「……どういうこと?」

「説明などないよ。しかしまあ、不満の捌け口にされたんだろう」


 もうアテツは口ごもらない。マーチの渡した湯を傾けつつ、よく聞き取れる声をまっすぐリーディアに向けた。


「あの、アテツ? 関係ないのに口を挟んで悪いけど、リーディアはお姫さまってことかな」

「うむ。儂らだけでなく国の誰も、リーディアちゃんと呼んだが」


 アリサの問いにも、憚らずアテツは答えた。僅かにリーディアへ視線の向く間はあったが、それは首肯が返されていた。


「最初から話すとしよう。このレオナードは、今では西方領と呼ばれるところから攻められていた。しかし見てのとおりに山の中だ、馬も大軍も役に立たない」


 アテツとリーディア、アリサとウミドが火を囲む。その輪を囲んで、ほかの者らが輪を作る。地面の岩に触れれば、ほんのりと暖かい。

 落ち着きかけていた火に、マーチが薪をくべる。鮮やかな色で躍る火の手は、大きな鉄鍋で押さえつけられた。


「国王さま。リーディアちゃんの父親だが、戦うと宣言した。既に落とされた国がどうなったか、いくらも聞いていたからだ」

「どうなったの」

「焼かれた。いや、家や人間ではないよ。国の記録をすべて焼かれた。鉄打ちだの壺作りだの、織物師のような者は残らず連れていかれた。国の歴史を消し、儲けになるものはすべて奪う。そういうやり方だった」


 鉄鍋に、食べられるはずのない硬そうな枝が放り込まれる。そんなひどいことがあって、マーチはおかしくなってしまったか。ウミドにはそう感じられた。


「西方領の兵は、隣の山の麓までも辿り着けなかった。言ったように山歩きに慣れていないからだ。数だけなら五倍もあったろうがな」

「アテツも戦った人?」


 アリサが問うことを、ウミドも知りたいと思う。アリサが言い出すまでは、分かった気でいるのに。

 場違いにも、頭がいいんだなと横顔を見つめた。


「いや、最初は違った。あんたの言い方なら、国王さまの邪魔をした人だ」

「邪魔を? レオナードの人なんでしょ」

「レオナードの人ではなかったな。あちこち戦ばかりで、おちおちと悪党もしていられん。それで逃げ込んだのがこの山だ」


 どこへいたのか、女が新しく何人も姿を見せた。手に手に持つものから、干し肉の匂いがする。

 それらが火の遠巻きに置かれ、香りがさらに強まった。


「悪党。盗っ人とか」

「儂はそうだ。旅をする商人どもの護衛を買って出て、道に迷わせる。正しい道を知りたきゃ、積荷をいくらか寄越せってな」

「あはは、悪い人だね」

「そう言ってる。ほかの連中も似たようなもんだ、詳しくは聞いてないが」


 アリサは笑った。ウミドは驚き、横顔をまじまじと見た。

 愉快げに、とはとても言えない。むしろ反対で、うっかりまずい物でも口へ入れたようだった。ふっと吐き捨てるように息を噴き、苦々しくも口角を上げた。


「レオニスも?」

「あれは赤子だったよ。ある日声をかけた隊商が、実は人買いだったらしい。儂を真っ当な人間と勘違いしたんだろうさ、逃げて谷へ落っこちた」

「その中に?」

「うむ。生き残った商品が何人かあったが、あれの親は見当たらなんだ」


 またアリサは笑った。ウミドの見守る中、今度は嬉しそうに「ふふっ」と。


「それで悪党の子に、か。あたしと同じようなもんだ」

「ああ、あんたも悪党に慣れてるらしいや」

「あたしのことはいいよ。ごめん、話を逸らせたね。戦はどうなったの」


 深い皺を刻むアテツの眉間が、より深く寄せられた。哀れむ風の視線を手で払い、アリサは与えられた湯を飲み干す。


「そうだった。西方領の次は、北の兵だ。今は皇帝と名乗る男がやってきた」

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