第26話:剣闘士の死合(6)

 再びの地下に、もう獅子レオの姿はなかった。石造りのどこかから声は響いたが、遠ざかっていく。

 あらためて見渡せば。というより、暗がりがゆえにまったく見通せない大きな空間だ。無数と言いたいほどに石柱の立つほかは、演舞場と同じ面積に違いないけれど。


 先に下りたはずのアリサが見えなかった。止めかけた足を早め、およそ中央へ進む。ほんの二、三十歩、二つ並んだ鉄柵の箱を前に、手を振る少女へさらに急いだ。

 さすがに闇が濃く、石柱を彫り込んだ物置きにランプが見える。球状の容器に取っ手と注ぎ口のような点火皿の付いた物だ。

 スベグでも南の町から手に入れて使っていた。


「急がせて悪いけど、次はこれね」


 ちょうど彼女の小指ほどの細い火が、白い顔を浮かび上がらせる。ウミドなどは立ち止まると同時、大きく息を継いだのだが、アリサは声の揺れる風もない。


 これ、と触れられた箱に蠢く影がある。が、小さい。獅子レオに続くのはどんな化物かと案じていたのに、ウミドの膝くらいの高さ。

 しかし毒を持つといえば、蠍や蛇。獅子レオのごとく巨体を持つものは知らないなと思い直す。その分、五匹や十匹でない数と見えた。

 ただそれも束の間、ウミドはまた「なんだこれ」と首をひねった。


「なに?」

「いやこれ、次に出るやつだろ? 毒を持ってるって」

「うん。ちょっと咬まれただけで、おしまいだってさ。気をつけて」


 耳聡く問うたアリサは、唇を笑みの形に曲げた。

 強張ってはいても、獅子レオを放ったときより遥かにましだ。素直にそう思うウミドも、彼女以上に口角を上げる。


「なんで笑ってんの?」

「お前──アリサのほうが笑ってる」


 努めて言ったのだ。小さく聴こえた「あ」が、なにを意味するかは分かる。だが気づかぬふりで、ウミドは続けた。


「それより、この毒持ちだ。こいつらスベグにたくさん居たけど、毒で死んだなんてないぞ」

「ええ? 咬まれたら痛そうな牙だけど」

「痛いけど、それだけだ。オレたちだけで大ネズミを捕まえに行ったのだって、何回ってこともない」


 どう見てもスベグの集落で罠にかかる、あの大ネズミだった。


「巣穴が大きいからな、すぐ分かる。手を突っ込んで穫るんだ」

「そうなの? 街中のネズミなんかは小さいのに、咬まれて死んだ人も居るって聞いたけど」


 何度も咬まれたし、しばらくは痕に残る。でも今はどこだったか分からない、と袖を捲って見せた。


「そうなんだ──ああ、そうか。ボルムイールだっけ、イーゴリが連れてきたんでしょ」

「イーゴリ? うん、そうだけど」


 せっかくの笑みの欠片が萎んでいく。もったいないと思っても、既に失われたものはどうもできなかった。


「自分がお金を出した剣闘士は、なるべく死なせたくないんだよ。弱かったら別だけど、最初だしね」

「えっ? いや、さっきの、獅子レオに食われたやつらとか」

「あの人たちは、ニコライ卿の預かりだよ。というか人殺しとかをやらかして、死罪を言いつけられてる人」


 なんだそれ。

 耳を疑い、アリサの言葉をよく吟味し、やはり「なんだそれ」とウミドの声は漏れた。


「なんだそれ、だよね。うんそうだよ、おかしなことばかり」


 噴き出して笑う少女の息が、ウミドの頬をかすめた。だのに泣き出しそうに、アリサは歯を食いしばる。


「お集まりの方々にご案内申し上げる。これより第二試合を開始します。まず登場するのは人外の手長男、ボルムイール!」


 仕事を急かす地上の声。すると少し離れたところで、鎖付きの男が動く。こちらと同じに二つ置かれた鉄柵の箱を、昇降台へ。


「さっきので、やりかたは分かったよね? あたしとウミドで一つずつ」

「う、うん」


 アリサの顔が木彫りの面に変わる。息の詰まる心持ちで答えれば、すぐさま箱を押し始めた。「そっち」とウミドの行くべき昇降台を指さしながら。

 直視に堪えない。たった三歩の隣でも、箱を押す間は眼を向けない言いわけができた。


「続いて、演舞場の壁から。どんな魔獣も恐れるという、一撃必殺の毒を持った刺客が入ります。しかも手長男に敬意を表し、大量に!」


 ちょうどの案内に従い、昇降台が持ち上がった。この間、アリサの姿はどうにも見えない。ウミドの胸に、不安だけでないもやもやとしたものが膨れ上がる。


「なんだよこれ」


 一人、こぼさずにいられなかった。あの少女はこんな気持ちを、今までどれだけ重ねてきたのだろう。

 考えたところで答えの出るはずもなく、昇降台は演舞場の脇へ到着した。相次いで、遠い向かいにも二つの箱が。


 ゆっくり、昇降台と演舞場とを仕切る鉄柵が下りる。中央に佇むボルムイールは、長い腕を垂れて突っ立っていた。

 ぼんやりと評するしかない顔で、対する大ネズミ入りの箱でなく天を仰いだ。


 毒がないって知ってるのか。

 ウミドにとって、好きも嫌いもない男だ。けれどもそれは過去のこととなった。


「では第二試合、開始!」


 鉄柵が下がりきるとともに、蓋を開けと指示がされた。仕掛けの棒はどこだったか、あせって探す数拍の分だけ遅れたが、大ネズミたちは一斉に箱を飛び出す。

 一つの箱へ二十匹以上があったろう。すぐに合流して大群となり、数えられなかった。


「ひぃぃぃ!」

「くっ、来るな!」


 獅子レオとは違う、寒気を帯びた絶叫で客席が満たされた。来るなと言って、演舞場から客席までは大人が二人分の高さがある。

 とはいえそれも、ボルムイールが囲まれるまで。獅子レオならばひと跳びの距離ともなると、「殺せ!」の声が聞こえ始めた。


 その段になってやっと、当の男が動く。腰の後ろから二本のナイフを抜き放ち、座り込む寸前まで姿勢を低くした。

 大ネズミが跳ねる。前を行く仲間が邪魔だったか、ボルムイールの顔が好みだったかは定かでないが。


 頑として石畳を走る者と跳ぶ者と、ぐるりすべての方向から襲いかかった。灰色や黒、濃い褐色ととりどりの大ネズミがボルムイールを包み隠す。

 ──と見えたのは一瞬。閃く鉄の刃が、無数の軌跡を刻み始めた。


 短いナイフでは、一条に一匹か二匹をしか斬れない。それが左右あると言えど、だ。

 だがボルムイールは、低い姿勢から足も使った。切り捌きながらでは、仕留めるまでの威力はないようだが。


 牙も爪も触れる想像ができぬほどに弾き飛ばされる。斬られたネズミは当然に一撃で、飛ばされたネズミも二度目か三度目には、動かなくなった。

 これなら、毒があろうがなかろうがかかわりない。


 なんだか拍子抜けで、ウミドは「ずるい」という冷ややかな眼で眺めた。

 そのうち、ふと。おかしなことに気づくまでは。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る