第25話:剣闘士の死合(5)

「見てて」


 アリサの声を聞き逃しそうだった。短い言葉の上に、ひどく早口であったから。

 見ていろと言ったはず。半分くらいの確度で見た当人は、鉄柵の天井に沿って据えられた棒を握る。

 両手の指を絡め合わすようにするのは、それも必要なのか。眼を瞑り、隣へ立つウミドにも届かぬ声でなにか呟いた。ほんのひと言か、ふた言。


 ああ、獅子レオの蓋が開くのか。

 どういう仕掛けだかウミドには分からないが、アリサがまぶたを閉じた理由は分かる気がした。気づかぬうち、アリサの手に己の手を重ねていた。

 細い持ち手を、アリサはひねる。瞬間、倣ってウミドも。


 中央の男らと獅子レオとを隔てる鉄柵が、派手に騒ぎ立てて開いた。

 首に黒い毛を巻く巨大な獣は、絶えず響かせた低い唸りを止める。それから中央の男らに頭を向け、背伸びでもするようにゆっくりと四肢を伸ばす。

 半開きの口腔から滴る白濁した液体が、量を増した。


 一歩。ウミドの胴回りほどもありそうな足が踏み出せば、鉄柵が軋む。

 二歩。箱の外へ出た顔を左右に振り、なにごとか考えるような間が数拍。

 三歩目は宙を蹴るかに見えた。あの巨躯はきっと幻で、触れれば消えてしまうのだ。そうとでも考えねば理解の及ばぬ滑らかさを以て、獅子レオは駆けた。


 同時、悲鳴にも似た声が沸く。実際に悲鳴もあったろうが、それは客席からばかり。対する男らは震える腕でナイフを構えた。

 彼我の距離が失われるのは、瞬く間と言って誇張がない。ただし男らのうち、元の位置から動かずにいたのは二人だけだが。


 そのうちの一人も獅子レオの顔面へ縄を投げつけ、ひれ伏す。

 頭を抱えた男の願いは、おそらく叶った。褐色の獣は石畳を蹴って翔ぶ。


「ひ、ひぃっ! ひぃぃ!」


 最後まで刃先を向け続けた男は、さらにナイフを振りかざす。目の高さから飛びかかる獅子レオへ叩きつける頃あいも、ぴったり合った。

 けれど獣は臆さない。鉄の刃物を知らなかったか、構う猶予のないほどに空腹だったか。


 いずれにせよ、男は下敷きになる。あの巨体に乗られただけでも、とウミドが眼を細めたのには反吐をぶち撒くことで答えを示し。


「うあああああ!」


 身動きとれぬ男の抵抗は、もはや大声しかない。それを獅子レオが自身の耳を塞ぐなどとはあり得ず、しかしやれやれと見える重々しさで首を垂れた。

 男の頭、あるいは首。獣の顎が僅か動いたところで、絶叫がやんだ。


 その代わりとでも言うのか。男の断末魔など問題にならぬ声の嵐が吹き荒れる。

 よく聴き取れないし、聴きたくもない。それでもウミドの耳には、「殺せ」「喰らえ」という言葉が届いた。


 歓声は、とどまるところを知らない。まして、より沸き上がる時間が何度も訪れるのを、ウミドには信じられなかった。

 最初の男を犠牲に、勇気を振り絞った二人目がナイフを突き刺す。背から鮮血を流したものの、獅子レオは弱る気配もない。

 食事の邪魔をした不届き者を殴り倒し、今度は複数で囲んだ愚か者を一人ずつ咬み砕く。


 なんで逃げないんだよ。敵わないやつに向かって行くなよ。

 咄嗟に思い浮かべた注文が、彼らにはできないと知っている。獣を相手にどちらかが動けなくなるまでとは、死ぬまでと同義だ。

 それが現実の光景となるまで、ウミドは眼を逸らさなかった。


 ──勝敗の決した獅子レオは大勢の兵によって網で絡め取られ、鉄柵の箱へ戻された。

 これで終わり、いや一つが済んだだけか。ともあれ血の海のない地下へ戻れる、とウミドは息を吐く。

 だがアリサは昇降台から出て、倒れた男たちのほうへ向かった。着いていけば獅子レオと兵が地下へ消え、戻ることはない。


「一人、頼める?」


 木に彫りつけたかに、アリサの表情が動かない。言う間に彼女は死体の一つを担ぎ、演舞場の外へ運び出す。

 ウミドも人の死を何度も見たが、ゆえに一人で運べるか己を疑った。病や事故で亡くなった者は、何人もで優しく動かすものだ。


 迷う少しの間に、目の前の一人以外がすべて担がれた。いずれも手足に鎖のある男が、一人ずつで。

 よし。

 ぐずぐずしていれば、アリサの手を煩わせる。気持ちの纏まるのなど待たず、とにかく死体の腕を取った。


 血と排泄物の臭い。気持ち悪いとは感じなかったが、喉の奥を刺された感触がある。

 すぐそこまで込み上げた吐き気を飲み込み、ウミドは肩へ死体を載せた。見かけたのだろうが、印象にない男なのが心持ちを楽にさせた。


「お集まりの方々に、ご案内申し上げる。演舞場の清掃を施した後、第二試合を行います。第二試合はひと咬みで獲物を仕留める、猛毒持ちの獣。対するは人外の手長男」


 獅子レオの次は毒を持った獣、それに手長男。よく思いつくと呆れたウミドは、それ以上を考えるのが面倒になった。もちろん、死体の重みにふらつくせいもある。

 どうにか客の視線の通らぬところまで辿り着くと、アリサが待っていた。


「お疲れさま。重いでしょ」


 笑ったつもりか、口角だけが微かに動く。

 とりあえず死体はそこと物陰まで二人で運び、アリサは走った。次の準備は待ってくれないらしい。

 地下への階段の寸前、案内のあった手長男とすれ違う。誰のことかと考えもしなかったが、眼に見れば瞭然。

 ボルムイールが演舞場へ向かって歩く。

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