第24話:剣闘士の死合(4)

獅子レオ?」


 忌々しい響きだった。凶悪な牙から涎を垂らす獣が、ウミドにはある一人と重なって見える。


「そう。獅子レオに似た者って意味だからね、強いわけだよ」

「名前なんか。その意味のとおりになるんなら、オレは今からでも別の名に変える」


 どんな名前にするかも悩む必要がない。それがまたレオニスのせいなのだ、とウミドの声は低く唸った。


「──まあね」


 なぜか、アリサの声も沈んだ。ウミドの声が怒りの色とするなら、彼女のは悲しみの色に。


「お前に怒ったわけじゃない。でも、悪かった」

「え?」


 ウミドの詫びにアリサは首を傾げた。しかしすぐ、笑って続ける。


「ああ、違うよ。あたしの名前もだと思ってて、だけどウミドの言うほうが正しいなって」

「名前って、アリサが?」


 どういう意味を持つのか、問うたつもりだ。けれども彼女は「あっ」と両手を打ち合わすだけで、解答を口にはしなかった。


「ごめん、ゆっくり話してる場合じゃないよ。準備しないと」


 ウミドに答える暇も与えず、アリサは獅子レオの入った箱に近づく。ただし一方にだけ板の張られた、鋭い爪が届かぬほうへ。


「この下にね、もしものときに隠れる場所があるんだ」


 しゃがむのも声も、動かす手もせかせかと。張られた板の下方にアリサは触れた。手前へ倒れる構造らしく、たしかに言うとおりの空間がある。大人が一人、ちょうど入れるほどの。


「もしもって、なんだよ」

「それはこっち」


 獅子レオという獣を、ウミドは初めて知った。だが、どう見ても草を食む牙でない。そこに向けられた、もしもの言葉は血の臭いがする。

 急ぎ足のアリサは、手近な石壁に向かった。のっぺりとした平面でなく、アーチ状に穴の空いた壁だ。


 アーチは等間隔に、いくつも並んだ。石柱や張り出した壁で視線が遮られるものの、数えきれぬくらい。

 この緩やかな曲面をした光景には覚えがある。演舞場を囲む石壁がそうだ。


「これ。昇降台っていうんだけど、この上が演舞場の壁なの。そこの縄を引っ張ったら、昇っていくんだよ」


 頭上を指さし、アーチの中が箱状になっていると腕で示し、脇の壁から伸びた縄の所在を教える。そういう己の役目を懸命にこなすアリサに、ウミドの口もとは緩んだ。


「あはは。うん、分かる分かる」

「ちょっと。なんで笑うの」

「えっ。オレ、わらっ、笑ったな。いや、バカにしたんじゃない」

「じゃあなに」


 なぜと訊かれても、アリサに言われて気づいた始末。「ええと」を何度か繰り返したが、明確な答えは見つからない。

 慌てた声で口を尖らせる少女を前にしていては、なおさら。


「なんていうか、その。なんだかいいなと思って」

「なにそれ」

「うぅん、悪い。うまく言えない」


 きちんと話せないとき、ウミドの取るべき行いは一つだった。昇降台へ自らも入り、アリサとの距離をなくす。

 即ち胸と胸を合わせ、手を背中に触れさせて抱き合う。手首の鎖に邪魔をされ、片手だけになったけれど。


「……なにこれ」


 十を数えられる間が空いて、アリサの震える声を間近に聴いた。気のせいでなければ、腕や脚も細かに揺れる。


「えっ、これでもダメなのか」

「これでもって、なんで抱き──なんでこんなことするの!」


 心から謝ったのに、怒らせたらしい。どうしてなのか、ウミドには理解できなかった。

 分からぬことは分からぬと言え。妙にごまかせば、より相手に手間をかける。これは父と母が揃って言っていた。


「くっついちゃいけないのか?」

「い、いけないとか、いいとかじゃなくて。なんでって訊いてるの」


 一つの候補が、いきなり正解だったようだ。嫌だと言うのだ、直ちに一歩の距離をとる。


「謝るときとか本当に信じてほしいとき、スベグじゃこうしてたんだ。怒らせると思わなかった」


 既に言葉では謝った。行為として示す方法は否定された。するともう、ウミドにできることがない。せめて「悪かった」と重ねるだけで。


「あ、ああ、そういう。いいよ、ごめん、びっくりしただけ」


 いまだアリサの声は揺れた。だが怒りや悲しみの色でないのは分かる。「許してくれるのか」への返答が、首がもげそうなほど強く何度も頷くのは奇妙だけれど。


「お集まりの方々に、ご案内申しあげる。これより栄えある第一試合を執り行います」


 頭の上から、大音声だいおんじょうが響いた。するとすぐさま、獅子レオの箱を何人かの男が取り巻く。

 箱の下に付けられた車輪が滑らかに動き、押して運ばれるのはウミドとアリサのところ。


「ちょうどいいや。耳に聞くより、見たほうが早いよね」


 言って彼女は、本来の段取りと違うことを男らに謝った。ウミドと同じ鎖付きの彼らは落ち窪んだ眼に「構いません、お嬢さん」と笑みを浮かべる。

 その間にも、「世にも恐ろしい魔獣の登場です」などと煽る声が届く。


 獅子レオとアリサと、ウミドの乗った昇降台が上昇を始める。

 とはいえ先は、見知った演舞場だ。鉄柵で閉ざされていたものの、それもゆっくり引き下ろされた。


 客席は人間で埋め尽くされていた。およそ同じ数の熱を帯びた声が、なんと言っているか聴き取れはしない。

 しかし向く先は獅子レオでなかろうと測れた。布で塞がれたといえ、演舞場はこれ以上ない晴天の下。まだ暗がりにある姿を見えるはずがない。


 となれば、残るはもう一方。演舞場の中央へ身を寄せ合う、十人に満たぬ男たち。

 各々の手に、小さなナイフと縄がある。ほかは布の衣服だけで、身を守る武装は見えない。


「あいつら」


 何人かの特徴的な顔が、ウミドの記憶を勝手に浮かび上がらせる。

 階段からレオニスの部屋へ至るまで、狭い鉄柵に囚われていた者たちだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る