第10話:闘技場の街(5)

 ニコライ卿の前を辞したレオニスに、ウミドは着いて歩く。普通は胸の前でする腕組みを背中の側にし、縄で固定されたまま。

 その縄の端をレオニスとは別の男が握る。少しでも歩調がずれれば後ろから突き飛ばされ、言うとおりに進むしかなかった。


 ニコライ卿を中心とした幕を出てすぐ、レオニスは立ち止まった。人の背丈ほどの低木が一本あるほか、なにもないところ。

 その周囲にも一人ずつ、あるいは何人かずつ、てんでまばらに腰を下ろしていたが。


「そこに縛ってもらえるか」

「良かろう」


 スベグを襲うとき、いちばんに偉そうだったのはレオニスだ。今もそうだと思っていたが、ウミドの綱を持つ男のほうが尊大な返答をする。

 身に着ける物など、両者に特段の差はないように見えた。いやそういえば辺りを見渡しても、頭に被る物がなめし革の兵と金属の兵がある。

 レオニスはなめし革で、尊大なほうは金属だ。


「くつろげと言っても無理かもしれんが。まあ、座るくらいしたらどうだ」


 歩み去る尊大なほうの兵を見送っていると、あくび混じりに言われた。振り返れば既に、レオニスは草の上へゴロ寝の体勢をした。


 薄く、夜の色が落ち始めている。このまま野営するのだろう。

 しかし縄の緩められる気配はない。であれば立っていても疲れるだけだ。


「うん、俺を殺すにも疲れは少ないほうがいいだろうからな」


 地面に尻を着けたと同時に言われ、癪に障った。けれども立とうとした足が、うまくバランスを保ってくれない。

 転んで無様を晒すよりは、堂々と座って睨むことを選んだ。


「そう睨むな。俺は別に、縄をかけなくていいと思ってる。しかし自由になったお前の牙が、俺にだけ向くかは分からん。そうなると俺の仲間に迷惑がかかる」


 そのとおり、オレが本当に殺したいのはお前の連れていた全員だ。

 という返答は怒気と視線とに預けた。どんな形でも、レオニスの希望を叶えてやることを嫌って。

 ただ、数拍の後に気づく。つまりレオニスは、ウミドが自分だけを狙う分には問題にしていない。


「……バカにしやがって」

「お、喋った」


 ニコライ卿とは打って変わって、天まで浮いていきそうな軽薄な笑声。それがますます、ウミドの感情を逆撫でする。


「バカにはしてない。さっきお前の剣筋がいいと言ったが、まるきり嘘じゃなかった。もし自由になってニコライ卿を襲うと決めたら、十に三か四はやり遂げそうだ」


 まるきり嘘ではない。十に三か四。それは嘘が混じり、六か七は失敗するということ。


「くそっ。人殺しのくせに」

「それが仕事だからな」


 言いつつ、レオニスは自分の腰の袋を探った。大きさも厚さも手のひらくらいのパンを取り出し、半分に割って噛る。

 荷車に乗る間、ずっと手の届くところへ燻製があった。見つかるのを恐れて食わずにいたが、既に一日半も飲まず食わずだ。

 ぎゅるぎゅると猛烈な腹の音が、レオニスのパンを吸い込みそうに鳴る。


「ん? なにも食ってないのか、食い物のある荷車を選んで隠れたと思ったが。というか、それでよく動けるな」

「お前を殺すためなら」

「なるほど? なにをやるのでも、強い気持ちのあるのはいいことだ」


 三歩の距離を、レオニスは四つん這いで近寄る。「でもな」とパンの半分をウミドに差し出しながら。


「限度ってものもある。なんだ、自分の汗でも舐めてごまかしたか」


 鼻先に、冷えていながらもこんがりと焼いた香りが漂う。スベグで食べるのとはまったく違う、甘い匂いも。

 目の前へ出すのが悪い。そう言いわけ、噛みちぎろうと首を動かす。

 空振りだ。ぎりぎりのところで、レオニスの手はひょいと避ける。


「あせらなくても、食わせるつもりだ。でも返事くらいはしてほしいな。答えたくないときは、そう言えばいい。だんまりはなしで」


 水入れも取り出された。空腹もだが、意識した喉の渇きを堪えられない。


「汗を舐めた」


 食いしばった歯の隙間から答える。すると持ち上げられた水入れを逆さに、水が降り注ぐ。

 髪の濡れるのも気持ちいいが、やはり飲みたかった。天を仰ぎ、一滴も逃さぬ気持ちで喉へ流し込んだ。


 渇きが癒え、次に口へ入れたパンもうまかった。水車で挽いた小麦でできているとは後に知るウミドだったが、レオニスの食べかけも平らげた。

 だが食い終えた途端。正確には最後のひと口を咀嚼する間に、自身への凄まじい嫌悪が襲う。もしかするとレオニスに向ける以上の。


「まだ飲むか? いくらでもあるぞ」


 先とは別の水入れをレオニスは示す。ウミドは声なく、忌まわしいパンを嚥下にかかった。

 噛んで細かくすることさえ、スベグの人々への裏切りに思う。おかげで嘔吐えずき、既に飲みこんだものまで口中へ戻る。


「なぁにやってんだ」


 水入れの先を口に突っ込まれた。無理やりに水を注がれ、飲み込む。

 人心地ついた。腹に溜まった感覚が恨めしく、耳から喉からを熱くするほど恥ずかしい。


「腹が減ってちゃ、ナイフも持てないんだ。俺を殺すには必要なことさ、気にするな」


 ふっと噴き出された鼻息は、嘲笑だろうか。そのわりに、そっと肩を叩かれた。


「自分で思ってる以上に、感覚が飛んでると思うぜ? なにしろ、こんな大事な物のないのにも気づかないんだ」


 水入れを戻したレオニスは、また別の何かを手にした。

 つまんでぷらぷらと揺すられる物体に、見覚えがある。鞘に入ったナイフは、ウミドのものだ。


「か、返せ! いつ盗ったんだ」

「人聞きが悪い。お前を殴り倒したあと、地面に落ちてたんだ──ああ、盗ってるな」


 荷車に乗っている間。ニコライ卿の前で、まさに飛び出したとき。レオニスを討つための武器は存在しなかったらしい。


「俺は返しても構わないんだが、今は無理だ。さっきと同じ理由でな」


 くそっ。くそっ。


「くそっ、人殺しのくせに」

「そのとおりと言ってるだろ。お前の先輩だ」


 返せるときに返してやる、とナイフは腰の袋へ戻された。パンの入ったのとは別の、革の頑丈そうな。


「……なんで助けた」


 これほど間抜けな刺客を、殺すには惜しいなどとはバカバカしい。

 ニコライ卿の前からずっとの疑問を、やっと問うた。なぜ今かと言えば、沈黙が羞恥を増したからだが。


「そりゃあ、お前。皆殺しにするよう命令されたのに、よりによって子供を仕損じてるのはまずいだろ」

「認めるのか。オレを殺し損ねたって」

「さっきから、そう言ってる。剣筋ってのは、剣の振り方だけじゃないって付け加えれば分かるか?」


 ほんの少し、レオニスの声が潜められた。おそらくだが他の兵に聴かれては良くないだけで、当のウミドに向けて恥じるそぶりは欠片もなかった。


「百人も殺したんだろ」

「そう呼べって、自分で言ったことはないぞ。間違ってもないけど」

「百人も……いや、百人って。偉そうにしてるわりに、少ないんじゃないのか」


 ウミドの集落と、もう一つの集落と。合わせて百人前後だったはず。

 これを何人で襲ったか知らないが。似たようなことを繰り返すうち、個人で百人以上を殺すなど当然でないのか。


「かもな」


 スベグの仲間を殺したこの男を、悪党めと蔑めば良いのか。それとも怠け者めと貶せば良いのか。

 眼を瞑り、今にも寝こけそうなレオニスへ。刺す視線にウミドは迷う。

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