第37話:ウミドの誓い(5)
客への案内が次の試合の開始を告げる。
人殺しと、人殺し以下。耳へ届く音、眼に映る景色。なにもかも、自分以外は同じモノだ。
ここに居たくない。
耳を塞ぎたい、頭を抱えたい。強烈な欲求を堪えるのは、レオニスの眼を意識すればウミドには簡単に思えた。
ではどこに、とした自問が父と母という答えを出す。捜して、三人で暮らしたい。誰も、二度と絶対に侵されることのない、どこかで。
それにはまず、闘技場を出なければ。どこを向いても必ず兵の目の光る、この鎖された空間から。
脱出を図って捕まれば、おそらく死ぬ。ダメじゃないか、とお叱りで済む場所ではあるまい。
レオニスほどの力があれば、無理やりに出ることもできようか。
いや。だとしたら、なぜこの男は逃げないのかとなる。どんな不利を与えられるかも知れぬ試合を、百も勝ち抜く気になるだろうか。
「……お前は。お前はどうなんだ」
うっかり、そのまま問うた。気づいて、まともに答えるはずがないだろと自らを嘲笑う。
「俺は、守るものを守れなかった間抜けだ。大人で、剣も与えられてたのにな。その上いまは、今日のメシを食うために、明日も生きてるために、ニコライ卿の言いなりになってる腰抜けだ」
レオニスがなにを言い出したか、ウミドは首をひねった。「はあ?」と問い直しもした。しかし先ほどの、スベグを滅ぼしたことに答えたのだと察した。
もう一度、問うべきを言葉にするのが嫌だった。
熱に冒されたように、全身が気怠い。特に足が重く、耳鳴りもする気がした。レオニスを見ていると頭痛もひどくなりそうで、水の入った桶を抱えた。
ざっ。と排水路へ流し、出口へ足を向ける。どこから持ってきたのかも知らないが、そんなことはどうでも良かった。
「ウミド、それは俺が」
「うるさい」
ドゥラクも試合を見にきたはずだ。するとまだ近くへいるかもしれず、今度は反吐ですまないかもしれない。
それは、
だがウミドは、ひと睨みでレオニスの足を止めた。早足になったのは逃げるようで無様だったが、ともあれ置き去りにする。
桶は、おそらくアリサのところだ。剣闘士の居ないほうへ、また早足で動く。
アリサの、と言って彼女は演舞場の下か脇へあるはず。前に水汲みを手伝ったところと当たりをつけ、見回す。
離れること、ほんの二十歩。扉のないアーチをいくつかくぐり、水場へ辿り着いた。
闘技場の隣へ川が流れ、それを引き込んでいると聞いた。たしかに石壁の中途から、足下より低く掘られた水路が入り込む。歩くくらいの速さで流れ、また外へ。
ここから出られたり。
甘い妄想を、水に手を浸してたしかめる。深いのは、水を汲むための場所だけだった。入口と出口は狭く、出られるとすれば部屋に出る小さなネズミ程度。
そうだろうなと自身へ嘯き、突いた膝を戻す。
「なにしてるの?」
突然の声に、桶を取り落とした。慌ててはない、これほど簡単に脱出できるなどと考えてはない。
そんな言いわけを口走りかけ、声の主への返答ができなかった。
「桶? 返しにきてくれたの?」
アリサとは違う。水路より奥の暗がりから、女の声がする。
おずおずとした動きで、こちらを窺うのも見えてはいた。少しずつ、明るいほうへ来るのも。
「あ、ええと、うん。ここでいいのか」
「そう。後ろに重ねてあるでしょ?」
言われて振り返ると、たしかに。五、六歩しか離れていないのに、なぜ気づかなかったか恥ずかしく思う。
すぐに重ねようとして、濡れたものは良くないだろうと脇へ置いた。
これでいいか、女のほうへ向く。
「お……」
声が詰まる。女の顔が見えたために。胸の鼓動も一つ、飛んでどこかへ行った気がした。
女の左眼は潰れていた。その周りにも、ひどい傷の痕が目立つ。なおもこちらへ来ようとする左足も、少し引き摺る様子だった。
「うん、そう。それでいい、ありがとう」
「ごめん、驚いた。それ、痛くないのか?」
女の笑みは弱々しく、アリサの強さを半分もらっても足りなく思えた。
すぐにと考え、直ちに謝ったのはそのせいだ。
「痛くないよ。心配してくれたの?」
「そうか。お前のこと知らないのに、良かったなんて言えないけど。それで痛かったら、どうしていいか分からなかった」
もう一人、食事を作る女がいる。アリサの言ったのが、この少女に違いない。
アリサともウミドとも、さほど変わらぬ年ごろ。濃い茶と赤毛の混じる、風にも靡かぬ短い髪。
「うん、痛くない」
「本当に悪かった。オレは──」
「ウミドでしょ? 知ってる、あなたが優しいって。アリサの言ってたとおり」
小鳥の囀るかに、僅かにだけ動く唇。それが横にすうっと伸びたのは、どうやら笑ったのだと気づくのに時間がかかった。
許されたらしい。許されていいのかとは思ったが、ほっと息が緩む。
「ええと、お前。いや、名前」
きちんと名前で呼べとアリサは拘った。この少女も同じに言うかは分からないが、きちんと呼んでやれと機嫌を損ねるかも。
しかし問うても、知れなかった。
「おい誰か」
と。おそらく兵の一人が、こちらへやってくる気配をさせたせいで。「ひっ」と少女は、今度こそ鳥の鳴き声で奥へ消えた。ウミドもさすがに、それを追うことはしない。
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