第36話:ウミドの誓い(4)
立ち上がるウミドは、疾く血の気の引くのを感じた。よろめくのは一歩や二歩で済まず、倒れなかったのが不思議なほどだった。
ようやく堪え、しかと立つ。すると自分のほうへレオニスの手が伸びていて、するすると下りていくのを見た。
きっ、と睨む。スベグを滅ぼした剣闘士は背を向け、部屋の出口へ足を動かした。
「おいっ」
「ニコライ卿に言われたから、って話じゃないんだろ。逃げやしない、拭くものを取ってくる」
振り向きもせず手をだけ振って、レオニスは出ていく。まま闘技場からも逃げるとは、ウミドも想像をしない。
黙って、誰も失せた暗がりを見つめた。一つ、二つと数え始めたが、どれだけなら遅いと文句を言えるかも不明だった。
百を目前。二周目に入るか考えていると、レオニスは戻った。水を張った桶、毛羽立った縄、ボロ布を石畳へ置く。
どれがいいかなどと、ふざけた問いを予感した。そうなるとウミドの精神は、ちょうど桶の中と同じようになってしまう。
さっさと縄を取り、いまだ縁からこぼれんばかりの水に浸す。
「俺はここから、まだまだ北の町で育った。それでも南の草原に住む遊牧民について、子供のころから知ってた。雪山の
的中したかは置いて、レオニスはボロ布を持つ。ウミドが縄でこすり、吐瀉物を排水路のほうへ流したあとを拭く。
「この辺りの町は、一つずつが国を名乗ってた。王さまが居て、兵を抱えて、隣に勝てると思えば攻めて物を奪う。勝てないとなれば、どうか仲良くしましょうだ」
「雪山の
「昔々、一人の王さまが聞いたのさ。山の向こうに豊かな土地がありますよ。獣はたくさんいるし、畑に麦なんて作ってるって」
スベグの山々の北は寒い。だから暖かい南側を襲いに来る。
母から聞いたとき、さっぱり意味が分からなかった。しかし今は──縄を握る手に力が入り過ぎた。勢い余り、石畳で指を削る。
「でも奪えなかった。人里を探すうち、いつの間にか囲まれてる。まあ最初のやつらが『命が惜しくば邪魔をするな』みたいなことも言ったんだろう。ついでに物をよこせとか」
兵を派遣するたび、ことごとくが全滅した。そう聞いて、ウミドは眉間に皺を寄せる。
「当たり前だろ。スベグの誰も悪くない」
「もちろんだ。しかしほかの王さまを巻き込んでも勝てない。運ぶ舟も大きくしたのに勝てない。となると、その先にどれほどのお宝が待ってるかって、勝手に想像が膨らんでいく」
苦労をして絶壁の草を採ったから、それは最高にうまくなくてはならない。おそらくそんなことだとウミドは理解した。
意味は分かるが、理屈が分からない。ゆえに選べる言葉もさほどなかった。
「どいつもこいつも、バカばっかりだ……!」
忌々しい。石畳へ叩きつけた縄が、汚れた水を散らす。
それをレオニスは、「だな」と小さく笑う。ボロ布を洗い、絞る手を止めて。
「そういうバカの中に、ちょっと利口なのがいた。いや逆に、とびきりバカなのかもしれんが。スタロスタロの王、つまりニコライ卿っていう」
いつも話すのと同じ声量でレオニスは言う。部屋にほかの誰もおらず、外は歓声がやかましい。
これが静寂の中なら、違っただろうか。
「ニコライ卿も食い物が足りなかった。それで昔の王さまと同じく、南へ行こうと考えた。山に穴を空けちまおうってのが、ほかと違った。結局、帝国ができるのには間に合わなかったがな」
もともと銀の坑道があったり、自然の洞窟も多かったらしい。という補足は耳に入らなかった。
やはり国とか王とかは、よく分からない。だが望んで帝国とかいうものになれたのなら、それで良いではないか。
とウミドが声として発する前に、レオニスは頷いた。
「ああ、ニコライ卿はやめなかった。ウミドの、スベグの平原の南に豊かな国が二つある。それが分かってから、むしろやる気が増したくらいだ」
「じゃあ……」
「そうだ。今年のうちに、皇帝が南の国を攻める。お前たちは皇帝の進む道の邪魔だった」
道。
道とは。山の恵みを、見つけた沢を、受け取りに行くためのものだ。途中にハイエナが巣を作れば、あるいは大岩が落ちれば迂回する。
それでもどうしても辿り着けないのなら、それは行くなということ。
「父ちゃんは道にされたのか」
「ああ」
耳に、ツンと張り詰めた感覚がした。自分は怒っているはずで、怒っていいのだとウミドは思う。
だがなにを、どう言っていいのか。
父、母。シャーミーとその家族。ずっと何年も、これから先もともに移り住むはずだった仲間たち。
多くの顔が浮かぶ。みんな、笑って。
怒らなければと願うほど、楽しかった記憶ばかりが甦る。
「オレたちだって、欲しい物は山羊と交換だ。それをお前らは」
大人たちが街へ行って、たくさんの物を持ち帰る。自分もそうやって、いつか一人前になる日を夢見ていた。
それが大人というものだった。
知った風に「ああ」と小さく頷く男とは違う。
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