第35話:ウミドの誓い(3)

 鬱陶しい。暑苦しい。この男の口は、きっとハイエナのげっぷと同じ臭いだ。

 しゃがみ込み、視界を塞ぐ不快な男。恨みを持つほどの関わりはないが、いつ危害を加えられるかという点でレオニスよりもタチが悪い。


 訓練の一環として壁を使う、というてい・・でウミドは立ったが、どうも演技がうまくなかった。

 しかし押し通して、石壁のほうへ足を踏み出す。どうせなにかと難癖をつけ、殴るか蹴るかするつもりだろう。

 数で勝り、斃したとて食うところもないハイエナを相手に、争うのはバカだと父も言っていた。


「このドゥラクへの報せによるとだ。最近ニコライ卿は、どこぞへいくさに出てたらしい。たぶん南の山の向こうにな」


 だがドゥラクは、拳も足も動かさなかった。これを幸いとして、代わりに放られた言葉がなんだろうと、聴こえぬふりを貫くのが上策だったはず。

 ウミド自身、そうと理解はしていた。実行するだけのしんが、残念ながら育っていなかったが。


「どうした? 汚え顔を、それ以上に面白くしないでくれよ。笑っちまう」


 顔面を。それに全身を強張らせたウミドに、ドゥラクの唾が飛ぶ。


「山の向こうってえと、ここいらの国は昔っから痛い目に遭わされてきたんだ。まあ皆殺しってのも、当然の報いってやつよ」

「……なに?」


 ぎゅっ、と。ウミドの奥歯は悲鳴を上げた。同じく両の手からも、きつく引き絞る音色とともに鮮血が落ちた。


「まあ待て、面白いってのはここからだ。その皆殺しの村に、生き残りがあったらしいや。それもガキが一人で、攻めたやつはよっぽどの間抜けに違いない」


 演舞場からの陽光が、急激に翳っていった。少なくともウミドの眼には、そう映った。

 ただ。沈んでいく闇の底へ、あの日に見た炎の色も。


「で、だ。そのガキってのが、どうなったと思う? 皆殺しにした間抜けの息子なんて言われて、仲良く試合の見物だとよ!」


 膝を叩き、口腔から飛沫を散らし、ドゥラクは笑った。どこまで本気か、あとからあとから哄笑が湧いて収まらぬ風に。


「傑作だろ? なあ、おい。笑えよ、笑っていいんだぜ」

「あ……ぅ……」


 なんの言葉も浮かんではいなかった。わなわなと震える唇が、顎が、漏れて噴く息に色を与えた。

 言わずと知れた、黒煙を巻く炎の色だ。


「うわぁぁぁぁぁ!」


 気づけば。とウミドに言えるのは、もう少しだけ後のことになる。

 涙を飛び散らし、喉を割かんばかりの絶叫。脳漿を掻き出さんと、指を突き出した。


「てめえ!」

「ドゥラク!」


 同時だった。

 ウミドの腹へ、ドゥラクの蹴りが入るのと。叫んだレオニスが、割って入るのと。

 上がった胃の中身が喉を塞ぎ、のたうつ。そんなウミドに、なおもドゥラクは踏みつけようと足を上げる。


「油断ならねえガキだ、このドゥラクの眼ぇ狙いやがった!」

「黙れ。ぎりぎりまで我慢した、ウミドの優しさに感謝しろ」


 苦しい。死ぬ。

 吐くも飲み込むも、喉がいうことを聞かない。石畳と石壁と、どれがどこだか知れぬまま身体を打ちつけても。

 掻き出せばいいじゃないか。

 ふと、誰かに教えられたように思いついた。それで、もはや所在もあやふやな自分の手を喉へ押し込む。


「げえっ、げほっ、げほっ──」


 薄く朱の走る吐瀉物が石畳を汚した。入れ替わりに、久しいとさえ感じる風が胸を膨らます。


「なんだ、なにを騒いでいる!」


 十人足らずの兵が入ってきたのは、それからだった。いまだ四つん這いで息の荒いウミドには、冷たい一瞥が向くだけだ。


「なにも? このドゥラク、誉れ高きレオニスと楽しく話していただけだ。なんぞ悪いものでも食ったのか、そのガキが調子を悪くしたが」


 互いに頭突きでもしようかという距離。腕組みで剣呑な視線を交わす二人の一方が、口もとだけを笑わせて言う。

 ぬけぬけと。

 ようやくそのくらいを考える猶予が、ウミドにも戻った。


「おい、どうなんだレオニス」

「否定する理由はないな」


 こちらは舌打ちで答える。両者が口を揃える中、先頭に立つ兵は剣を抜いた。

 レオニスの喉へ切っ先が向き、じっと睨む。しばらく、ウミドの息が素に戻るまで。


「ご、ごめん。オレが気持ち悪くなっちゃって」


 事実を話したとて。

 正解は分からぬものの、ウミドの選択は兵の剣を納めさせた。


「吐いたものは片づけておけよ」

「ええ、もちろん」


 ドゥラクの連れがお利口さん・・・・・の声色で、兵の前と後へ立って追い出す。「だとさ」と、当のドゥラクも。


「……なにか拭くものでも取ってくる」


 レオニスが言ったのは、二人になり、第一試合の終了が告げられてから。

 もちろんそれは必要で、己の汚物を始末するのに異論はなかった。けれどもその前に、ウミドには問うべきことがあった。


「教えろ。なんでスベグを消した」

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