第53話:十七歳の流転(13)
「お嬢さんの身分って、なんだ?」
貴族という身分。金持ちという身分。そういうものが偉く、剣闘士のような者は決して逆らえない。
なんとなく聞き覚えた身分という言葉と、単に女を呼ぶためのお嬢さんと。
山羊のスープがうまいと言ったら、毛皮に包まれば暖かいと返されるような。どうもウミドには、ちぐはぐにしか感じられなかった。
「……さあ。男みたいってことじゃない」
アリサが答えるのには、少しの間がかかった。聴こえなかったらしいと、もう一度言いかけたところだ。
その返答も、ぼそぼそとしてか細い。彼女から聞くには珍しい声で、そんなに腹を立てたのか顔を覗く。
するとアリサは、さっとレオニスのほうへ顔を背けた。
「レオニスは大丈夫だったの?」
「言ったろ。稽古をつけてやった」
「本当に稽古?」
「正確には違うかな。身体が動きやすいように、ほぐしてやった」
「ほぐすって」
「肩とか肘とか、関節を外して回してやるのさ。きちんと元通り、直してもやった」
街ではそんなことを。人ごとながら、ウミドは血の気を引かせた。
馬から落ちたとき、山で足を踏み外したとき。スベグでも肩を外して治す者を見たが、大の男でも悲鳴を上げていた。
「そりゃあ──」
アリサも、痛みを堪えるように頬を引き攣らせた。
なるほど真っ当に返り討ちを行ったらしい。それならドゥラクに加担した連中には、ちょうど良かった。
さっきまでの
「それでいいのか? 試合まで、まだ九日もあるけど」
着いてきた剣闘士はともかく、ドゥラクもお咎めなしだ。ほとぼりが冷めたらという猶予もなく、またすぐになにかしらの行動へ出るに決まっている。
「なにかあるかもな。しかし兵長にありのままを言えば、ウミドと俺の試合も流れたはずだ。また来月にやり直しはあるが、ドゥラクが自分を捩じ込むだろうし」
「くそ、面倒なやつ」
面倒というのが、これほど似合う者があると思わなかった。広くて狭い闘技場という場所で、なにをいつ仕掛けられるか警戒するのは気が重い。
ただ、舌打ちをしてから悔やんだ。アリサの顔から、先ほど見えた僅かな笑みも失せていた。
「大丈夫だって。そんな顔するなよ、アリサは笑ってるのが美人なんだから」
「び、美人?」
励ますつもりに違いないが、感じるまま言った。少なくとも貶すつもりは皆無。
だというのにアリサは、眉間に深い皺を作った。「なに言ってんの」と完全な怒声までも貰った。
「ええ? 怒ることなのか」
「うるさい。あんたは自分の心配してればいいの」
なにが悪かったやら。不明ながら、謝罪の言葉をウミドは並べた。返る声は「うるさいうるさい」とばかりで、もはや会話にならなかったが。
そのうち分厚い石の天井越しに、盛大な歓声が聴こえた。試合が終わったようだが、仕事のあるはずのアリサはここにいる。
「アリサは大丈夫なのか?」
「うん、頼んできたから。でも次の試合は戻らないとかな」
気をつけるんだよと付け加え、アリサはいつもの昇降台のほうへ戻っていった。
じきに警戒の兵と、訓練の剣闘士も何人か姿を見せる。そのころにはウミドも、自身の鍛錬に励んでいた。
レオニスから、いつでも教えてもらえる。そう羨む剣闘士はときどきいて、ウミドも否定しない。
しかし実際、直になにかを教わったことはなかった。ウミド以外の誰かへ教えるとき、九十九勝までの試合。眼で見て、何度となく繰り返しに記憶をなぞり、己の身体でやってみる。
戦うということの、それが唯一の手本だった。
最後の九日間も変わりなく。ウミドはレオニスの最も近くで、なにも教わらぬ鍛錬を行った。ドゥラクからのなにかは、遂に行われなかった。
「お前と同じ部屋で寝起きするのも、これで最後だな」
九日目の夜、晩の食事中に言った。言葉少ななアリサの立ち去った、すぐあとだ。
「一緒に寝るか?」
「殺すぞ」
「冗談で言ってんじゃない。ニコライ卿との戦のとき、雪が積もってた。寒さ除けの毛皮もなくはなかったが、間に合いやしない。夜、寝るときは男同士でくっついて寝るしかなかった」
「それがどうした」
スベグでも寒い時期はあったし、山に雪は積もった。わざわざそんな中で眠るのがどうかまでは分からないが、今は石壁の中で寝床もある。
関係ないじゃないかと声を平たく冷たくしたが、それきりレオニスの声はない。
「冗談なら冗談で、最後まで考えとけよ」
「だな」
へへっと軽薄に笑い、レオニスは天を仰いだ。なにかあるのか、ウミドも倣ったとて、これと見えるものはない。
高い高い窓、星明かりが仄かに白い。いつも見慣れた、眠る間際の光景。
いや一つ、きらきらと光る粒が舞った。見ていると二つ、三つ。さらにいくつか舞っては、すぐに消える。
雪だ。今年は初めての。
「──俺には息子がいた。ウミドより、四つほど下の」
「……へえ」
「寒いのが嫌いで、すぐに俺の腋やら股ぐらへ入ってくる。娘もいて、そっちのほうがウミドと近いが、恥ずかしがりだった。弟を羨ましそうにして、『来るか?』って誘うと、『あっち行け』だ」
雪をも融かさぬと思う、静かな声。
なにを言えばいいか、なにか言っていいのか。どれだけ探しても、適当な知識をまだウミドは持たない。
「今は」
どうしているのか。生きているのか。そこのところを知れないと、おかしなことを言ってしまうだろう。
それにしても、なんと気遣えばいいか。自分の言葉が刃物になるとしたら、小さなほうがいい。そうするのがウミドの精一杯だった。
それからレオニスの返事はなかった。泣いているとか、まさか眠っているとか。こっそり盗み見ると、最強の男は笑っていた。
なにやら満足そうに、舞う雪を目で追って。
「嘘なんだな?」
「あははは。嘘だ」
「うん。殺すのは明日だ、待ってろ」
噴き出すレオニスを、視界の外へ追い出す。残った山鳥をしゃぶり尽くし、ウミドはさっさと寝床へ潜る。
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