第40話:ウミドの誓い(8)

 息が苦しい。

 誰か下から、腹を持ち上げようとしているか。まさかと思いながら、足下へ目を落とす。

 誰も居ない。突き上げる吐き気に、喉の門を閉ざす心持ちで堪えた。


 もう少し。あとほんのちょっとで、スベグのみんなの仇が討てる。

 それはやらねばならぬことであって、でなければ人の死を願いはしない。まして喜ぶことなどない。

 だから思い詰めた気持ちが、腹の中を掻き出そうとするのだ。と、きっと真っ黒の吐瀉物を、ウミドは飲み込む。


「ウミド、気持ち悪いの? 水でも持ってくる?」


 見せぬつもりだったのに、間なしにアリサは言った。顔を上げずとも、案じる彼女の視線が読み取れる気がした。

 昔、熱を出したとき。母に、いや父やシャーミーでも、声をかけてもらえばほっとした。まだ熱が下がらずとも、随分と楽に感じたのを思い出す。


「──いや、大丈夫」


 石壁の向こう、その瞬間を見逃すわけにはいかない。覗く穴に顔を押しつけると、大剣が横薙ぎに振るわれるところだった。

 離れたウミドの鼻すじまでも、薄く斬られたかに錯覚する剣圧。吸い込まれるように打ち叩いたレオニスの小盾へ、一瞬の炎の花が咲く。


「百人殺し!」

「レオニスさまっ!」


 もはや怒声と言ってもいい、大気を震わす歓声。それは分かるとウミドも頷きかけたが、横の方向へ変えた。

 倍と言って大げさでない体格差をして、大剣は後退した。レオニスは踏み留まり、反撃の一撃を振るう。ではあれを、ウミドならできるのか。


 できない。だから頭を使い、今この機会を作ったのだ。

 そう思うのに、どうも獣皮の男がレオニスと。よろめいて転ぶレオニスが、ウミド自身に重なって見える。


「なんでよ! レオニスあんた、そんなのに負ける男じゃないでしょ!」


 すぐ隣からの罵声が、己を責めて聞こえた。違う、あの大男が強いんじゃない。勝っているのは自分だ、とウミドは願った・・・


「負けるようにしたんだよ」


 レオニスのしんを見極め、叩いている。そのはずだ、と胸に言い聞かせる。

 だが発した声は頼りなく、我が耳にさえ届いたか怪しい。


 はっと穴から顔を離し、横目に覗く。アリサもたった今までのウミドと同じに、石壁の穴へ顔を押しつけていた。


 甲高く、心ざわめかす音が跳ねた。見れば壁際にレオニスが倒れ、松明が土台もろともに落ちている。

 味をしめたか。獣皮の男は水平に大剣を構え、悠然と近づいていった。

 剣を頼りに、レオニスは立ち上がろうとした。だが左腕が利かぬのか、だらりとさせたまま。


「闘技場の王者の交代だ!」


 女の歓声、あるいは悲鳴は言葉になっていなかった。男も似たようなもので、獣の咆哮としか言えない。

 その中にちらほらと、レオニスの敗北を期待する声がある。


 おまえらのためじゃない。

 ウミドは石壁を殴り、再び顔を押しつける。


 大剣が、レオニスの左手へ唸りをあげる。盾が使えぬとなれば、もう受け止めるすべはない。

 終わりだ。

 瞬間に閉じようとした眼を、ウミドは押し止めた。歯を食いしばり、細くなった視界にしかと見る。


 獣皮の男へ、松明が投げつけられた。顔面に、レオニスの左腕で。

 手の一方が大剣から離れ、眼の辺りを払って拭う。これ以上にない隙を、レオニスの剣が斬り上げた。


 獣皮の男から、獣皮が落ちた。横腹を起点に左の腋のほうまで真っ直ぐ、血の色の線が走る。

 これで決まった、そう見た者は多いだろう。手のひらを返した歓声には「さすが」と称えるものが多い。


 大剣が天を突く。振り下ろせば、石畳が砕けた。破片に混じり、金属の音色で跳ねるなにかが転がっていく。

 およそ真ん中、割れたレオニスの小盾だ。残った半分も命数を尽き、滑り落ちた。


 残った武装は、胸に当てた金属の板のみ。スベグを攻めた、憎き姿のまま。

 乱れた息を整え、剣を握り直すレオニスに、ウミドは腹が立って仕方がない。


 ──山羊狩りの遊戯ブズカシにもしんがある。


 なぜ、父の声が聞こえるのか。お前が父を騙るんじゃない。そんな罵倒をするつもりだった。


「オレが殺すまで死ぬなバカ野郎!」


 突き抜ける声がどこまで走ったか、それはもちろん分からない。

 しかしレオニスは笑った。闘技場の誰からも、きっと見誤らぬほどしっかり口角を上げた。


「はっ!」


 それは笑声なのか気合いの一喝か。図らずも獣皮の男と、互いに剣を放つきっかけとなった。

 大剣は天から降る。レオニスの剣は天を突く勢いで走る。


 轟音が闘技場に静寂を与えた。また一枚、大剣が石畳を砕いたのだ。

 レオニスに覆いかぶさる恰好で、獣皮の男は動きを止めた。膝を突いたレオニスも、ぴくりとて。


 どっちだ。誰も判定役の声を待っていたに違いないレオニス。おそらく判定役も、目を凝らすばかりだったろう。

 数拍。無とも言える時間が過ぎ、思い出したように風が鳴った。煽られた松明がぐずり、強くした火で虚勢を張る。


 ず、と。

 肉を裂く音がした。

 獣皮の男の背に、金属の芽が顔を出す。それはにわかに伸び、真紅の色をした奇妙な華を咲かせた。

 次いで歓声という名の、醜悪な華も咲き乱れる。


 あれはいつか先、自分の姿だ。この石壁の建物でたった一人声なく、ウミドは己に誓った。

 剣と四肢を投げ出したレオニスを睨めつつ。

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