第39話:ウミドの誓い(7)

「ここで見てろって?」


 背中からの声に、ウミドは気づかぬふりをした。

 穴の開いた石壁越し、試合の見られる例の部屋。おそらく頭上は客席で、いまだ歓声は豪雨のごとし。


「こら、聴こえないのか?」

「──ん、ああ」


 後ろ頭を小突かれ、ようやく気づいたふりに今度は忙しい。

 いつもより、と言うには試合の行われた日のほうが多くなった。それ以前よりも眼の下を黒くした顔を、アリサはぱっと笑わせる。


「初めてだよね、レオニスの試合」

「まあな。アリサも暇なのか?」


 何日も、夜の食事の配布でしか顔を合わせないのが続いた。おかげで余計なことを気づかれずにいたが、今ここへ来るのは想定外だった。


「この試合の間だけね」


 ウミドと並び、アリサも演舞場へ向く。客席の中ほどへ立ったイーゴリが、「今回も皇帝陛下の御名において──」などと喚いているところだ。


「我が家の一同より、お越しくださった皆々様に御礼申し上げる」


 妻と娘だろうか。イーゴリの左右へ二人ずつの女が進み出る。勝った剣闘士への半分にも満たない拍手を受け、イーゴリは高い席へ戻っていった。

 きゅっ、と奥歯の軋む音。従って顔を向ければ、アリサの視線と正面からぶつかった。


「なにかあったよね。レオニスと」

「なにか、は最初からだ」


 問われる予測をしていたが、答えは決められぬままでいた。もはやこうなっては、なるようになれと開き直る。


「では最終試合を──始めよ!」


 だが合図があって、アリサは演舞場へ視線を戻した。最初の笑みが濃く残ったままなのを、なにが面白いのかと問いたくなる。

 問えば自身に不利と悟って、ウミドも演舞場を眺めた。


 獣皮を纏う男は、大剣を両手で高々と掲げた。それがあまりに無防備な構えと、レオニスと剣闘士らの会話を聞き続けたウミドにも分かる。

 レオニスは訓練で持つ木剣と似た恰好の剣を右手に構えた。左腕には食事で使う木皿と同じくらいの、小さな盾が取りつけられて。


 普段は木の実の殻に似た明るい黄色の瞳が、赤く燃えて思えた。

 嫌いな色だ。

 はっきり、蔑む言葉をウミドは浮かべた。


「変だね」

「なにが」

「いつもは、さっさと斬りかかるんだよ。避けられてもなんでも『知らない相手に迷っててもムダだろ』って」


 一方に傾いたアリサの首が、反対にも傾く。言うとおりレオニスは、じりじりと左へ回り込もうとするだけで近づこうとしない。

 回り込むというのさえ、円の中心に当たる獣皮の男が少し向き直るだけで意味をなくす。


「怪我でもしてるのかな」

「さあな」


 少女の眼は、瞬間もウミドに向かない。ちらちらと何度となくあらためても。「レオニスさま」と、客席からの女声と同じだろうか。だとして、ありがたかった。


 理由は怪我じゃない。

 ウミドだけが知っている。まだ確信まではいかないが、きっとそうだと。無意識に笑っても、見咎められる心配はなさそうだと。


 同室する何人かの剣闘士からも、調子が悪そうという声が密かに聴こえた。回り込むこと、もうすぐ半周になろうかというのを、客席からも野次が飛ぶ。


「いつものキレはどうしたあっ!」

「レオニスさまぁ! 美しい剣技を見せてくださいませ!」


 美しい?

 睨んでこそ鋭いが、眠そうにも見えるあの眼が。ときにウミドの分の皿へ、すんすんと突き刺してきそうな鼻が。あくびと冗談をしか発しない、紅い唇が。


 隣の少女を盗み見る。

 一歩。獣皮の男の、明らかに脅しと分かる踏み出しにビクッと動いた。

 そうだ、命の取り合いに美しいなどと。アリサのほかは、やはりおかしい。


「そうだ行けぇっ!」


 一転、沸く。声に重さがあるのなら、ウミドは間違いなく圧し潰された。

 固く拳を握るアリサを眼の端、石畳を滑るようなレオニスを捉える。


 片手で持てる剣を、両手で腰前に。低くした姿勢のまま、相手の脚でも突こうというのか。

 だが大剣を掲げる男の前、どう考えても自殺行為でしかない。


「「巻け!」」


 そういう練習でもしていたかに、歓声が揃う。

 巻け、とは。意味の知れないウミドをよそに、周囲の剣闘士も「巻け巻け!」と騒がしい。


 大剣が降る。間合いもぴたり、頭蓋の割れる姿をしか思えなかった。

 しかしなにやら、覚えのある光景にも感じた。正体に辿り着くより先、レオニスの剣と大剣とが触れる。


「うわあぁっ!」


 ため息混じりの歓声。レオニスの剣先が、小さく円を描いた。なにを斬るにも、大剣へ以外は届かぬ距離。ウミドには、おかしなことをするとしか思えない。


「巻き取れなかった!?」

「なんだ、あの男は!」


 同室の男らが喚く。レオニスがなにをかやろうとして、失敗したらしい。それでも、さっと三歩を離れて傷はないが。

 獣皮の男も、また大剣を掲げた。薄汚く伸ばした顎髭を揺らし、にやり笑って。


「巻け、って。なんだ?」


 アリサは答えてくれるだろうか。くれなければ、それは仕方がない。おそるおそるの声に、返答はすぐさまある。


「ええと、うん。なんだか分からないけど、レオニスは剣をくるっと回して、相手の武器を奪うのが得意なんだよ。巻き取るって言ってて、失敗したのは初めて見たけど」

「へえ」


 なるほど、そんな得意の技を誤るほどか。

 誰もレオニスが寝不足とは知らない。知っていたとして、言いわけにも採用されないだろう。

 闘技場で大歓声を受けるあの男を倒すのは、名も知らぬ大剣使いだ。

 ウミドの胸に、鼓動が高まっていく。

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