第45話:十七歳の流転(5)
「先に怪我って、珍しい」
いつの間に、隣へアリサのあることを声で気づいた。さっと顔を向ければ、図ったように遅れて横目で見られた。
疲れを差し引いても、何色も感じさせぬ眼で。
「なにかした?」
「するわけないだろ」
「なら、良かった」
言葉のとおり、僅かながらも笑みが作られる。前へ向き直るのには、はや消え失せたが。
また少し、ボルムイールの剣に朱の色が増した。致命傷には遠く、腕をかすっただけだ。それでも一瞬、己の身が痛むように彼女の眼は細まる。
「あいつが百勝するのって、アリサと関係あるのか?」
「あたしが? ないよ、あるわけない。なんで?」
「いや、そういうこともあるのかと思っただけだ」
百勝すれば莫大な恩賞をもらえ、闘技場を出られる。そんな夢物語を高らかに謳うのは、勝てば拘束されることのない腕試しの輩にしかなかった。
一つ、二つ、と試合のたびに怯えながら、無謀と知って挑む者もなくはない。しかしそういう剣闘士は、三勝か四勝あたりで大きな傷を負う。
五勝を数えられる男は、年に何人あっただろう。
「誰かのためって言うなら、一人はウミドでしょ」
「それこそないだろ、オレは二十と何勝かのときに来たんだ。アリサはほら、あいつと普通に話すし」
レオニスの部屋から、ほかの誰かの部屋を見ることはできない。獣の餌として閉じ込められた罪人がいたのも、以前の部屋のこと。
演舞場の脇でパンを配るアリサは、レオニスもほかの者も変わらぬ扱いに見える。ゆえに根拠という根拠はないが、やはり親しげに思えた。
「普通にだよ。今あたしは十九歳で。闘技場の剣闘士を世話焼いて。まあ、女で。それをそのまま、なにも想像しない人ならみんな好き」
「そうか?」
「うん、だからウミドも」
レオニスが巻き取りを仕掛け、すり抜けたボルムイールが浅い傷を与える。そういう練習でもするようように、何度目かも知れず繰り返された。
さすがのアリサもいちいち眼を細めることはせず、ちょっとウミドを向いて口角を上げる程度してくれる。
「そ、そうか」
自分の名前が出てくるのは、まったく予想の外だった。痰でも絡んだかに詰まった喉へ、一つ咳払い。
ふいに思いついた名を、試しに訊ねる。
「それで言うとボルムイールは?」
十九で、世話役で、女。そういうアリサになにか想像する人とは、なにを想像するのだろう。
それこそ想像も及ばないが、ボルムイールは当てはまらないと思えた。演舞場の外では、気弱で真面目な男とウミドは見た。
「あー。いい人だけど、いい人過ぎるのかも。『苦労してるのにな、悪いな』って毎回しつこいくらいなのはね。ドゥラクの真似なんだろうけど、お嬢さんって呼ばれるのも」
「お嬢さんは丁寧な言い方なんだろ? おい女、って呼ばれたいのか」
「ひっぱたくよ?」
どうも境目が曖昧だが、不自然な笑みに「そうか」で引き下がった。重ねて問う言葉も思いつかない。
だっ、と石畳を蹴る音。ボルムイールとの距離を取り、レオニスは右と左の腕を順に回した。
「ようし、やっと分かった」
首と、腰と、脚と。全身をほぐすように動かしつつの宣言は、信憑性に欠ける。しかし最後にぐっと背伸びをし
「ここから俺の番だ」
と。笑って言った次の眼に、ウミドは寒気を覚えた。
レオニスの瞳に燃えるのが、松明を映したものなら。あれほど冷たい色をするものか。
いつも正面に向けられるレオニスの剣先が、天を向いた。
極めて近い位置で、相手の視界の外から振り下ろしてこそ意味がある。以前にレオニス自身から聞いたことだ。
両手で振り下ろせば、相手の守りを強引に崩せる。それも片手のままでは当て嵌まらない。
まま、レオニスは走った。この闘技場で近い姿を探せば、無謀にも
「おい……」
お前を殺すのは。
誰だか分かっているのかと言いたくなる。だがそんな諦めをするほど追い詰められたとも思えない。
腹が立つ。短くない時間を過ごしてきても、それだけは変わらなかった。
「このクソバカ野郎が」
クソバカ野郎を、ボルムイールは迎え受ける。左手の、緩い反り身の剣が伸びた。ウミドにも明らかに早いと見える間合いが、なぜかちょうどレオニスの首に向かう。
ただしそれでは、十度目に届こうかという繰り返しの繰り返しだ。レオニスが巻き取りをしないというだけで。
頭上でも高い位置から、真っ直ぐに剣が落ちてくる。振り下ろしでなく、突き下ろしという角度。
逆手に握られたレオニスの剣が、ボルムイールの剣を弾き返す。そのまま刃先は、無防備な腋を斬りつけんとした。
だがもう一方、ボルムイールの右手が閃く。輪っかを半分にしたような、奇怪な刃を持つ剣が。
過たずレオニスは、小盾を叩きつけて止めた。身体の右と左で別の生き物のごとく、器用に。
斬り裂かれた皮膚から、柘榴を砕いたかの赤が散る。それはウミドが仇とする男のほう。
なぜ。左右のどちらの剣も捌いたはずなのに。まさかボルムイールには、三本目の腕でもあるかと本気で疑う。
けれども眼をこすり、冷静に見れば明らか。小盾に止められた半月形の剣先が盾を迂回し、レオニスの肉へ喰らいついていた。
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