第84話:遊牧民の牙(10)
「こんなこともなにも、俺は頼まれた物を作るだけだ。ほかの仕事と変わりやしねえ」
ふははと笑う声に合わせ、髭が踊る。鍛冶職人の男は椅子を立ち、向かっていたのとは別の壁へ歩いた。
「そんな言いわけで、許してもらえるわけ?」
叩きつけるようなアリサの声に構わず、鍛冶職人は木の棚から小さな壺を取った。
中身を残らず載せられそうな手へ、カサカサと乾いた音が僅かにこぼれ落ちる。乾燥させた木の葉らしい。ほんの一摘みを指先で丁寧に砕き、手鍋へ払い落とす。
そこへ水を注ぎ、盛る炭の前へ男は戻った。
「俺は
「得になるから? ダメだったとき、
手鍋を火にかけつつ、男はアリサを見つめた。鼻も口もよく分からない顔だが、真ん丸の眼だけはよく見えた。
「……なにを怯えてる?」
「あっ、あたしは怯えてなんか!」
「女だてらに、そんな汚え男の恰好して。そっちの二人も、足を悪くしてるな? 俺も同じに訊きたくなる、若いお前らがどうしてこんなことをするかって」
たったこれだけ話す間に、湯が噴き上がる。男は褐色をした金属のカップを取り出し、手鍋の中身を注ぐ。
それは「ん」と、アリサに突き出された。
「どうしてって、あたしは──」
「訊かねえよ。誰も伊達や酔狂で、こんなことをやりやしねえ。俺が聞いたのは、この街をひっくり返すような騒ぎになる。さぞ胸が空くだろうってな」
声を詰まらせたまま、アリサはカップを受け取った。するとまたカップを取り出し、ウミドとリーディアの分も注がれた。
「俺にとって大事なのは、そこんところだ。俺にできねえことを、お前らがやる。本気なんだろ?」
最後に男は、自身の分を注ぐ。カップの中でなお煮立つそれを、問うた口へすぐさま注ぎ込む。
「あたし……」
答えるどころか、アリサの足は震えた。
お前も飲めと言うのだろう、鍛冶職人のカップがアリサのカップに触れて鳴る。
「本気だ」
つかつかと、わざと床を鳴らすようにウミドは歩み寄る。触れ合う二つのカップに、自分のカップをぶつけて。
「あんな闘技場なんていう狂ったところ、オレが叩き壊してやる」
まだ誰にも言わぬことを声に出し、カップへ口をつけた。
触れる前から、唇に熱気が伝わる。迷う暇を己に与えず、ウミドはカップを逆さまにした。
焼けつく感覚が、舌から喉、喉から腹へ落ちていく。だが意外にも、それだけだ。腹に熱は留まったが、急速に冷えていくのが分かる。
「わ、私も」
リーディアもカップをぶつけ、口へ運んだ。傾ける途中で留まり、中身を「ふうぅ」と吹き始めたが。
「熱い茶を飲むのなんか、全然だ。ニコライ卿か? イーゴリか? どっちを敵に回すのも恐ろしいってことを、お前はよく知ってるらしい」
そう鍛冶職人が言うと、アリサの手が跳ね上がった。ためらわず飲み干し、濡れた頬を袖で拭う。
「だから訊いてる」
「うん、俺は南東の村から連れてこられた。女房と娘がいたが、一人でな」
唐突に、男はなにを言い出したか。しかしアリサへの返答には違いないはず。驚いて顔を覗き込む以上の邪魔を、ウミドはしなかった。
「同じ村からほかに何人かいたが、今も生きてるのは俺だけだ。なにかしら逆らったんだろうな、俺は昔から要領だけはいいんだ」
いまだ手鍋に残った茶を、鍛冶職人は自らのカップへ注ぐ。要るか? と向けられた鍋を女たちは断り、ウミドはカップを出した。
「鉄を鍛えて、物を拵える。俺にはこれしかできねえし、好きで始めた。仕事は絶えることがねえ。好きな茶を買うくらいの贅沢は許される」
冷めかけた茶は、癖のある苦味が舌に纏わりつくようだった。けれども嫌いでなく、ウミドはもう一杯くれないかとさえ思う。
「故郷の村は、歩いて帰れなかねえ距離だ。帰ろうとすりゃどうなるか、試したこともないから知らねえ」
「ねえ、やっぱりちょうだい」
最後に鍋へ残った分を、アリサが要求した。鍛冶職人が断ることはなかった。
「もう何年も前だ。しかしあれから、俺は生きてるのかと不思議に思うことがある。俺は故郷で死んで、今は夢でも見てんじゃねえか。そのほうが幸せなんじゃねえかって」
鍛冶職人のカップは、茶を満たしたまま。水面に波を立てた。
男も、アリサも、互いの眼でなく波を見つめた。
「俺にできねえことをやる。そんな奴らを裏切りやしねえ」
「もう分かった」
アリサは茶を飲み干し、男にカップを押しつけた。背を向け、次の方向も知らぬままに遠ざかる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます