第79話:遊牧民の牙(5)

「ふうん?」


 どこかで聞いた声。

 ウミドの細めた眼に映るのも、整える気があるのかないのかと問いたくなる不揃いのあご髭。なにより頬から喉へ走る、一条の傷痕。


傷痕の男スラーン──」

「おう。そう呼べとは言ったが、面と向かって言うんじゃねえよ。こっ恥ずかしい」


 言葉とはうらはら。筋肉隆々の商人は、にかっと歯を見せて笑う。


「あんたたち、まだいたの」

「おんやぁ? アル・・、お前は口が利けねえんじゃなかったか。思ったとおり、別嬪べっぴんの声しやがって」


 傷痕の男スラーンとアテツとの間に、アリサが割り込む。だが今も男の装いをして、男のふりで通していたのを忘れていた。

 握手にも近すぎる距離。額に手を翳した傷痕の男スラーンは、腰を屈めてアリサの顔を覗き込む。

 それを今さら、手で隠しても意味がない。


 身を固くしたアリサは、凍えたように震えた。気づかぬはずもなし、傷痕の男スラーンは下から覗くのをやめない。


「おい、なんの用だ。もうオレたちは、お金を持ってない。なにか売りつけようったってムダだぞ」


 と、アリサの後ろで言わねばならないのが歯がゆかった。代わりにアテツが入れ替わり、彼女を背中へ隠してくれたのがありがたい。


「まあまあ、そういきるもんじゃねえ。俺はお前らに、儲け話を持ってきたんだ」


 ウミドの声が大きかっただろうか。傷痕の男スラーンは驚いた顔を拵え、辺りを見回す。それから、やっと聴こえる囁き声で、着いてこいとどこか行く先を指さした。


「儲け?」

「お金をたくさんくれるってこと」

「なんだ。オレたちにお金なんか必要ない」


 儲け話の意味が分からず、問い返したのには眼を丸くされた。後ろからアリサの入れ知恵ですぐさま続ければ、また厭らしく傷痕の男スラーンは笑う。


「いいねえ。お前らに必要ないってことは、その分が俺に回るってことだ。まあ悪いようにはしねえ、話だけでも聞いていけよ。メシくらい出すぜ?」

「うるさい、オレたちに関係ないだろ」


 この男は、闘技場とレオニスの件を知っていた。それがまた声をかけてくるとは、いよいよ正体を察せられた可能性が高い。


 だが。いやむしろ当然と言うべきか、傷痕の男スラーンに引き下がる様子はなかった。また声を潜め、「黙って聞け」の言葉が低く響いた。


「ここにお尋ね者がいる、なんて俺が騒いだらどうなるか分かるな? でも、それじゃあ俺に得がねえ。だから着いてこいって言ってんだ、お前らの儲けも付けてやるからよ」


 断る選択肢が失われたらしい。

 それでも強引に逃げたほうが良いだろうか。もしもウミドの負傷がなければ、そうしていた。


傷痕の男スラーンの通り名は、よく知っておるよ。今このやりとりは、儂の仲間がしかと見とる。もしなにかあるようなら──」

「ああ。みなまで言うな、炭売りの旦那。怪しげな真似で、行商の認可状を捨てるつもりはねえ」


 すぐにも昼寝でもしそうな、柔らかな笑みのまま。優しげなアテツの声に、傷痕の男スラーンも呵々と笑って応じた。


「まずは信用しても良かろうと思うよ。ウミドの言うとおり、儂らをどうこうしても儲けはないからな」


 アテツが言うなら、着いていくのも仕方がない。本当に騒ぎ立てられれば、スタロスタロの夜の再現になる。


「よし決まった!」


 ウミドもアリサも、なにを言う前に。傷痕の男スラーンは歩き出した。先ほど指を向けたほうへだ。

 振り返りもせず、無造作な風の足運び。しかし体重をかけた側から襲われても良いように、上半身は逆へ捻っている。


 強さのほどは知れない。だがこの男も、ある程度以上に剣を使う。ウミドの眼には、そう判じられた。


 ──広場から遠くない、全力で駆け戻っても息も切れぬだろうという距離。「ここだ」と、並ぶ建物の一つへ傷痕の男スラーンは踏み入った。

 アテツが先にアリサを歩かせたので、実質の最後尾はウミドとなる。敷地の脇へ置かれた見覚えのある荷車を横目に、狭い通路へ進むのは背筋が冷える。


「で、だ。面倒な段取りは端折るとしよう。お前ら、百勝の男の仲間だな?」


 奥まった部屋へ入ると、傷痕の男スラーンはいきなりの核心を問う。もはや隠しようのないことらしいが。


「だったらなんだ」

「おいおい、突っかかるなよ。俺はお前らの敵じゃない。なにか助けてやれるんじゃないかって、用を聞いてやってるんだ」


 顔も出せない小さな窓が一つ。古い石壁はあちこちが欠け、落ちた欠片や石埃は片付けられた形跡がない。

 十人でもいっぱいになりそうな部屋に、「それが分からない」とアリサの声が跳ねる。


「あんたらが本当に助けてくれるとして、どうやって儲けようっての」

「おお、やっぱり美人の声だ。その邪魔な被りものを取ってみちゃくれねえか」


 山の小屋から持ってきた、男の帽子を。アリサは要望と反対に、顔を隠すのに使った。


「アリサに絡むな。殺すぞ」


 脅しでなく。ウミドは唸って、腰のナイフに手をかける。

 足の使えないことは忘れていた。しかし思い出して、それでも斬りつけられる方法を考える。


「……へえ、アリサか。絡むと殺されるのか、なるほど」

「ちっ! なんなんだお前は」


 迂闊にも、本当の名前を教えてしまった。にやにやとした顔に舌打ちをぶつけても、おどけた足取りで壁にもたれかかるばかり。

 こちらの本気を適当な言葉で受け流すのは、レオニスと似ていた。どうもあのバカ野郎より、不気味な感触が強いけれども。


「アリサお嬢さまの質問に答えるとしよう」

「お嬢さまじゃない」

「ん?」

「あたしをお嬢さまなんて呼ぶな!」


 足下の、拳大の石を。アリサが投げる動作は速すぎて追いきれなかった。

 傷痕の男スラーンの肩の上、石壁から小さな破片が剥がれ落ちる。


「あたしはお前みたいな商人が大っ嫌いだ! 人がなにを言っても、なにも本当とは考えない。お前らは本当のことなんてどうでもいいんだ。嘘しかなくても、儲けさえあればみんな喜ぶと思ってやがる!」


 突然の叫び。アリサがこれほどの感情を見せるのは初めてだった。しばし傷痕の男スラーンも、まばたきをしない。

 やがて「これは失礼」と、直立の姿勢で答えるまで。


「ではなんと?」

「ただのアリサだ」

「承った、ただのアリサ。あなたを怒らせたお詫びも篭めて、本当にあなたがたを助けさせてほしい。俺は儲かる、あなたがたは百勝の男を救う。そういう話にご興味は?」

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