第7話:闘技場の街(2)

 どれだけが過ぎたか。ウミドが目覚めたとき、ひたすらに黒い泥の底から抜け出るような感覚がした。

 すぐさま凄まじい痛みに襲われ、自分の耳にもやっと届く呻きを落とす。膝を抱えて堪えたいところ、そうする気力さえ残っていない。


「たったこれだけか? すぐ食っちまうな」

「ああ。わざわざ皆殺しで奪うような量じゃない」

「バカ、殺されるぞ」

「お前が言い出したんだろ」


 はっ、と眼を開く。天幕の外、やつらがまだ居る。そこらじゅうから、ごそごそと物を動かす音がする。


 ウミドの奥歯が強く軋んだ。

 さっきの男。そう、レオニスといった。どうやらあれが、いちばん偉そうだった。天幕の内を見回したとて、姿のあるはずもない。

 代わりに見たのは、親しい者たちの姿。


 ウミドの母とシャーミーの母は、抱き合って倒れていた。仲良く眠るようでもあって、「起きてよ」と背を叩きたくなる。

 シャーミーを見つけるのは、少しの観察が必要だった。大地に口づける恰好でうずくまった、シャーミーの祖母。腹の下の、纏う布の垂れる合間から、別の手が垣間見えた。


 這いずって近づき、指を引っ張る。次は手のひら、手首、腕。どこを引いても、揺すっても返事どころか、なんの抵抗も感じない。

 食事を作るときに使う混ぜ壺を頼りに、己の上体を持ち上げる。祖母の背中に、深い穴が穿たれていた。


「ばあちゃん、ごめん」


 そう言ったつもりが、自分でもぜえぜえと荒い息遣いにしか聴こえない。

 肩を押し当て、足を踏ん張り、シャーミーの祖母を転げさす。


「……ごめん」


 見なければ良かった。

 ひん剥いた眼と、口と。胸を抉る傷。ウミドはシャーミーの身体を押しやり、祖母と添い寝の形にする。

 それから傍にあった掛け布を、顔から胸にかぶせた。同じように、胸を貫かれた母親たちにも。


いてえ──」


 先の祖母と同じく、地に這いつくばる。痛いのは事実だが、生きている。


 オレはなんで。

 殺さなかったのか、殺し損ねたのか。その答えは、額についた腕で気づく。

 ねちゃねちゃと気色の悪い感触がして、目に映す。固まりかけた泥のような血と、さらさら流れるような血が混ざっていた。


 大きな傷が額から頭頂付近まで開いている。自身の倒れていた場所を見れば、敷き布がどす黒い。ウミドなら四、五人も寝そべる面積が染まった。


 仕損じたんだ。

 むかむかと腹の奥が煮え立ち始めた。同時に、冷やそうとする水の流れを頬で拭う。


「う……うぅ……」


 声を出すつもりはない。今ここで見つかれば、せっかくの命を踏み潰される。

 うるさい、と自ら首を絞めても。込み上げる感情が留まるには時間が必要だった。


「もういい、終いだ」


 荷車の音。天幕のすぐ外で止まり、ウミドはびくっと身を縮めた。それで止まった自分の泣き声に、また怒りが膨れ上がる。

 外の男らは荷車を離れたらしい。とは言え何十歩もは行かない。


「いいか? よく燃えるからな、せえので点けるぞ」


 燃える?

 たしかによく聴けば、男らは松明だかを持っているようだった。


「せえのっ!」


 一人の張り上げる声。直ちに「よしっ!」と、辺りから数えきれない返答がある。ウミドの居る天幕にも、もうもうと煙が立つ。

 考える暇も迷う時間もなかった。

 昨日、カシムと同じに骨組みを抜いていたのだろう。天幕の裾を捲り上げ、目の前の荷車へ乗る。


 蓄えていた麦や燻製などが並ぶ中、いくらかの天幕も畳んで重ねられた。

 その下へ潜り、息を殺す。間一髪、男らはすぐに戻った。


 怪しむ気配もなく、荷車が動く。猛る炎の叫喚が天幕越しにも耳を衝き、そっと隙間を拵える。

 ウミドの、シャーミーの、スベグの民の住み家が燃え上がる。巻く煙が、天を咬む化け物のようで、また熱い感情が喉に痛みを感じさせた。


 集落を襲った男らがどれだけ居るのか、一人ではどうもできない。

 だからせめて、あのレオニスという男は殺さねば。ウミドから、父と母と仲間を奪った大罪人を。

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