第50話:十七歳の流転(10)

 ──翌朝。

 試合の行われる初日、ウミドの思う普段のレオニスと異なる点は見つけられない。見た目にはとっくに塞がった左肩の傷や、高熱も含めてだ。


「最後の十日間だな」


 ウミドにも同じ事実ではある。しかし眺めるだけだった自分とは、違った気持ちがあるはず。

 もし、特別ななにかをしたいと言うなら。可能な限り、手伝ってやるつもりで言った。


「だなふぁぁ」

「あくびか返事か、どっちかにしろ」

「ふわぁぁ」


 感傷のようなものは持ち合わせない。あったとして、言い出すことがない。レオニスをそういう人間と知ってはいたが、いざそのとおりにされると舌打ちを抑えられない。


「なにかないのか。寝床からなにから綺麗にしたいとか、新しい上衣シャツで過ごしたいとか。それくらい聞いてくれるだろ」

「ないな。ウミドのを頼んでやろうか?」

「要るか」


 腹いせに革履サンダルの辺りへ蹴りを見舞う。どうせ避けられるはずで、強めに。

 しかし当たった。


「いい足払いだ。利き足を浮かせたところでやれば抜群だった」

「うるさい」


 いかにも寝ぼけ眼で、錠を開けてくれる兵を待つ九十九勝の男。ウミドはといえば、危うく挫きそうだった足の指を撫でる。


 演舞場への通路も、普段と変わるところがなかった。ただ少し、歩きやすいと感じた。先行く剣闘士たちが、各所で待ち構える兵が、何歩かを進むうちに視界の正面から外れる。

 誰も特段のなにを言うでもなく、「やあレオニス」のあとにウミドへも視線を向けた。優しげにも憐れむようにも見えたが、意味を考えることはしない。


 地下も同じく、鎖付きの男どもが忙しげな様子がいつもどおり。

 いや、兵の姿がない。よそで手が足らなくなったと減ることはあったが、一人として見えないのは今までになかった。

 よほどのことが? という推測は、即座に否定する。第一試合も始まる前に、なにが起きよう。ほんのたまたまで、今すぐにでもやってくるに違いない。


「アリサ」


 ためらいとか、遠慮とか。

 似たような言葉の一切を含まないレオニスの声に、ウミドは額を押さえる。

 当たり前に見えてはいた。どう話しかけるか、あるいは話さないかを迷っていた。


「ああレオニス、いよいよだね」

「まだ、だいぶあるがな」

「まあね」


 鉄柵の箱には、大量の大ネズミが入っているらしい。最初のボルムイール以降、誰も生き残った者のない恐怖の対象となった。

 ゆえに鎖付きの男らも世話を押し付けあう。その一つを、アリサは昇降台へと押す。端々まで強張らせた、感情の失せた顔で。


「アリ……」

「ウミド。あんたも試合に出るんなら、手伝ってる場合じゃないからね」


 ぴしゃり、見えない扉が閉じられた。

 今回は手伝えないことを、ウミドも具体的な言葉を探そうとしたところだ。胸のどこかを凍えた風が抜ける。


「うん、悪いな」


 鉄柵の箱を押すアリサの顔は既に見えない。昇降台へ乗り、早く上げてくれと手が動く。縄を放っていた鎖付きの男は、なんだか分からぬ様子ながら従った。


「さて、仲良く鍛えるとするか」


 自身を笑おうとして、鼻息を噴くことにも失敗した。と同時に背中を叩かれ、咳き込んだ。


「げほっげほっ、一人で仲良くしてろ」

「風邪か? 気をつけろよ」


 わははと豪快に笑うレオニスの足が、地下の奥へ向く。一人でとは言ったものの、そうもいかず「うるさい」とごまかして着いていった。

 地下の空間の真ん中辺り、いつもは十人ほども兵が詰める一角にも誰もいない。


「予想どおりだが、やれやれだな」

「お前の人気も大したもんだ」


 この事態を事前に話しあってはなかった。だがレオニスの言うように、なにもないと考えるほうが難しかった。


「やあやあご両人、精の出ることだ」


 訓練に使える道具を集めた、地下の最も奥まった辺り。あと十歩というところで、後ろからの声がした。

 ドゥラクのほかに疑う理由はなく、入口まで届くのではとウミドのほうが案じる大声。


「先に言っとくが、やらかそうってんなら死罪だぜ?」

「やらかす? なにを、このドゥラクが? そこのガキに頼みがあって来たまでよ。なに、誰一人として見聞きする者はない。まさかこのドゥラクの頼みを断ることもないだろうが」


 この期に及んで遠回しにする意味もない。厭味の恰好でなければ、ものを言えないのか。

 呆れる気持ちが半分。もう半分の気持ちで、ウミドの足は細かく震える。


「しかし大勢で大変だな」

「そんなことはない。このドゥラクとともにありたい、などと言ってくれる者ばかりだからな」


 ドゥラクの脇へ、いつもの数人。その後ろへ、十人くらいが見えた。

 こんな男に従って、なんの良いことがあるのだろう。ハイエナの糞を見る心持ちで、並ぶ顔ぶれに視線を走らす。


 と、中に昨日の剣闘士を見つけた。レオニスが百勝に達し、闘技場を出たらどうするのかと問うた男だ。

 アリサのほかにも迷惑をかけたらしい。胸の内で謝る以上にできないことを、さらに謝った。


「で?」

「頼みとは言うまでもない。誉れ高きレオニスの百勝目を賭けた試合。対戦の相手がどういうわけか、このドゥラクでないと聞いた。それは誤りだったと訂正の確認だ」


 そう言うドゥラクだけでなく、半ば暗がりに立つ十人ほども一斉に足を動かした。若い剣闘士の頬に、ありありと痣の見えるまで。

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