第29話:剣闘士の死合(9)

 右腕を折られ、棍棒を失った男がのたうち回る。客席から「殺せ!」「踏み潰せ!」と親切にも、その男の立場を知らしめる声援が熱い。

 徒手空拳の剣闘士に武器を与えたのだ、その罪は重かろう。しかし残る二人も呆然と眺めてはいなかった。


 棍棒を奪った剣闘士が構え直す前。手斧の男が躍りかかる。

 ウミドにもやすやすと振り回せそうな手斧を両手で握り、叩きつけんと。いや、足先で蹴ろうと。それとも体当たりで、浴びせ倒そうとしたのかもしれない。


 思いつくことを一度にやろうとして、めちゃくちゃに手足を動かしている。とウミドが判じたとおり、剣闘士は半歩を退くだけでどれも躱した。

 さらに追い打ち、しっかりと握られた棍棒が手首を叩いた。手斧の男も避けようとしたが、最も逃げ遅れた左手がぶらり垂れ下がる。


 三人と一人だったのが、これで一人と一人になった。眼に映る光景は、判じるということでさえない。これで剣闘士が勝ったようなものだ、と考えたウミドは息を呑んだ。


「どけぇっ!」


 よろめく手斧の男の背後から、剣を持つ男が突進する。切っ先を剣闘士へ向け、手斧の男を肩で弾き飛ばし。


「くうっ……!」

「どうだ。これで無罪放免ってわけだ」


 剣先が深く沈む。向かい合ったまま、剣闘士は後退も叶わずに膝を折る。

 これを幸い、剣の男は体重を乗せた。割れんばかりの歓声の中、肉の裂ける音の聴こえる気がした。


「──そうはいかんっ!」


 絶叫。完全に押し込まれた恰好の剣闘士が、腕を振り回す。それは狙ってのことか、剣の男の脇腹を棍棒は打った。

 まま吹き飛び、肩口を刺していた剣も抜けた。夥しい鮮血が、数拍も続く滝を作る。


 もはや動かぬらしい左腕を構わず、剣闘士は跳ぶ。勢い余って石畳に転がる、剣の男の直上へ。

 ウミドの腕よりも太く長い棍棒が、天を突く勢いで振り上がる。だが僅か届かぬ最高高度から、美しいまでの弧を描いて下ろされた。


 棍棒と石畳との間に、剣の男の頭蓋がある。胸は防いでも、頭を守る物はない。

 飲み水を溜めておく土の壺を、誰か高い位置から落として割った。ウミドの耳に届いたのは、そんな音だ。

 ほんの少し前、全身を揺さぶられる思いだった歓声がぴたりとやんでいた。


 この瞬間にものを考え、声をも発せようというのは自分だけでは。ウミドが真剣に、そう錯覚するくらいの静けさがあった。

 ほんの一瞬だったか、十も数えられる間があったかはウミドに知れない。間違いないのは、誰かの雄叫びで静寂が破られたこと。


「ふざけんじゃねえ!」


 手斧の男へ向こうとする剣闘士に組みつく男。最初に棍棒を奪われた男が、残る左腕で背後から首を絞めた。

 完全に予想外だったのだろう。剣闘士は棍棒を取り落とし、腕を外しにかかった。

 けれど手斧の男も、苦痛に歪んだ顔で近づく。


「ちょ、調子に……乗りやがって!」


 絶え絶えの息でも、言わずにおれぬようだ。小さな手斧を振り上げるにも腐心して反動をつけ、ようやく。


「死ねえ!」


 端的な欲望を、手斧の男は吐き出した。剣闘士の胸へ向け、叩きつけるより倒れ込むという風に。

 今度こそ終わり。

 結果に辿り着く一瞬前、ウミドの行った予測はまたも外れた。


でででで!」


 剣闘士の背後、首を絞める側の男が叫んだ。なにが起きたか、視覚に収める間は与えられない。剣闘士は背後の男を前に投げ、位置を入れ替えんとする。


 どこまで図ってか、止まらぬ手斧が仲間のはずの男を傷つけた。いまだ投げられる中途、宙でバタつかす大腿を割った。

 飛び散る血が、手斧の男を頭から濡らす。呆然と、己を朱に染める大元を見つめたまま。


 剣闘士は四肢で身体を支えようと踏ん張り、しくじった。左の肩を石畳に打ちつけ、多分に湿り気を帯びた奇怪な音で呼吸をする。

 だがそれも、吸って吐いてを三度まで。不意に止めると、地を這う虫のごとくに移動を始める。


 目的地を問う必要はなく、先にあるのは剣。およそ三歩の距離が、果てしないほどのろのろと。

 手斧の男も足を動かす。焦点を失って見える眼をそのまま、方向だけは剣闘士に。


「でいやぁっ!」


 剣を拾い、振り向きざまに斬る男と。手斧を振り下ろす男と。どちらが叫んだか、ウミドには分からない。

 ただ、ようやく決着の着いたことは間違いなかった。横薙ぎに喉を切られ、断末魔もなく倒れた手斧の男という結果を以て。


「最高だ!」

「よくやった!」


 石造りの闘技場が震えたと、ウミドには感じられた。なにも言わぬ者は一人もないような歓声と、負けぬだけの拍手。

 勝利した剣闘士へ駆け寄った兵が、代わりに腕を上げて応じてはなおさら。


 ウミドの縋った鉄柵が下りる。拾う死体は三つ。しかしアリサと二人、ほかに出てくる者はない。どうするつもりか、追い抜かした少女を窺う。

 迷うことなく、出口から遠い剣の男の脇へ立った。先刻見たのと同じく、造作もない動作で肩に担ぎ、すぐに棍棒の男へ向かう。


 そうか。各々が一人を担ぎ、残る一人を二人で挟めばいい。

 想像がついたウミドは、手斧の男に触れる。けれども担ごうとして、どうも勝手が違った。

 重い。最初の試合で運んだ者と、大して変わらないと見えたのに。


 いや、胸を守る武装がある。金属の板と、繋ぎ止める革と。ウミド自身の体力も、時の経つごとに目減りしている。

 それでも死体の下へ潜るようにして、なんとか担ぐには成功したが。


「死ぬって。殺し合うって、こういうことなんだよ。あの、勝った剣闘士だって、あの怪我じゃ次は死ぬに決まってる」


 膝をまっすぐにするなり、アリサは言った。左右の肩へ一人ずつを載せ、背を向けたまま。鉄で拵えたかと思う、硬い声で。


「ああ、そうだ。こいつらはこれが仕事なんだろ。だから、好きなだけやればいい。あいつを殺すにも、あいつに勝てるやつにやらせればいい」


 ウミドの声は震えた。死体の重さゆえに、だ。これがこの場所の、闘技場の理屈なら、なにも遠慮はない。

 アリサの答えがないことも、彼女の自由だ。

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