第21話:剣闘士の死合(1)

 陽が上ればまた、剣闘士たちの訓練が始まる。パンとスープを抱えたまま、ウミドの眼にもその光景は映った。

 しかし見てはいない。ウミドの意識にあるのは、闇に見開かれた眼。


 なんで笑った……?

 笑声こそなかったが。勘違いのしようもなく、柔らかく弧を描いた。

 ぐっすり寝入る中を起こされれば、それだけで烈火のごとく怒る者もある。その上に殺そうというウミドの意志を、気づかぬはずもなし。


 さらにレオニスは、あくび一つでまぶたを閉じた。

 寝ぼけて、たまたま眼を開いただけで、楽しい夢の続きに戻った。という仮説には、ばかなと否定しかない。


 中天のころ。パンを配る役割りはアリサでない、もう一人の少女。ゆえにだろう、暇だからと隣へ座ることもなかった。

 レオニスについて、なにか聞き出せまいか。ぼんやり目論んだのは、どうやら来ないと気づいてからだ。なんでだよと積もる苛々に、彼女の責は欠片もない。


 それから、ねぐらへ戻る者が腰を上げ始めたころ。昨日とそっくり同じ、と思えた一日に変化が訪れた。

 闘技場の外へ繋がる鉄柵がいっぱいまで開け放たれ、十人の兵が駆け足で演舞場へ入った。やや遅れ、真っさらの白い衣服に光る石を付けた男も。その後ろ、加えて十人の兵が続く。


「イーゴリさまだ」


 誰だ、と問う手間はなかった。近くの剣闘士らが、ひそひそと話す。聞き覚えた名を、闘技場を切り盛りする商人と思い出すほうに少しの時間がかかる。


「おいドゥラク!」

「はあ、なんでしょう。我が主」


 イーゴリを囲む兵は、いつでも剣を抜けるように手をかけていた。物騒な半円の中央から、ひどく肥えた者に特有のひしゃげた声がする。

 応じたドゥラクが進み出て、五歩手前に片膝をついた。兵たちにも尊大な態度を変えぬあの男が。


「今月の試合も三日後からだ。お前を筆頭に、訓練に励んでおるのだろうな?」

「それはもちろん」

「お客様がたは、真剣勝負をお望みだ。連戦連勝のお前とて、ただ命散らすだけでは満足いただけん。賭けも興醒めというものよ」


 低い位置から見上げる顔が、にやり。ドゥラクの不敵な笑みは、ウミドの眼を細めさせた。発酵した山羊の反吐を嗅いでもしたことがないほど、頬もひくつく。


「重ねて、もちろんと申しましょう。このドゥラクはもとより、イーゴリさまに恩ある者。ニコライ卿お抱えの者どもも」

「うむ。不甲斐ないさまを晒しては、卿のご不興を買うでな」


 言われて、レオニスとほかに数人が頷く。ドゥラクの後ろへも、いつもの面子が。


「承知。しかしこのドゥラクめらが踏ん張ろうとも、顔ぶれの変わらぬ熱だけはどうしようもなく。よその貴族さまから新顔などは、先月はなかったですが」

「おお、目端の利くやつよ。気づいて言っておるのか?」


 絞れば水気のしたたりそうな頬を揺らし、イーゴリは笑った。陽を受けた碧い石が、ウミドの眼を刺す。

 振り返ったイーゴリの「おい」に応じ、手と足それぞれに鎖付きの男が連れられた。


「東方領から、奴隷に買い取った男だ。変わった風体だろうが?」


 下履ズボンは既に、どの剣闘士も履く細身のもの。上は裸身で、脇腹にあばらが浮いて見える。引き締まっているものの、筋肉隆々とはほど遠い。

 あまり強そうとは思えなかった。が、変わった風体とはひと目で理解した。


 腕が長い。おそらくドゥラクよりも高い背丈から垂らした腕の先、指が膝へ触れそうだ。

 名はなんだったかと問われ、ウミドと同じ赤土色の頬が動く。


「ボルムイール」


 ぼそぼそと口に篭もる声。居並ぶ剣闘士の頭上を眺める眼。強気とも弱気とも、ウミドにはさっぱり読めない。

 しかし「面白い」と、まじまじドゥラクは見つめた。


「その腕に長剣を。いや両手にナイフか。まあ本人の得意を踏まえ、見物にえるように」


 展望を聴き、満足げにイーゴリは頷く。ボルムイールをドゥラクの脇へ歩かせると、大きく息を吸い込んだ。


「聴け、剣闘士どもよ! お前たちの為すべきは、戦って勝つことのみ。勝ちを重ねれば、良いメシ、良い部屋、良い寝床。最後には莫大な恩賞が待っている!」


 良い寝床? とウミドは首をひねった。藁なのは構わないが、石床の硬さと寒さはどうなのか。それとも、教えを乞われるレオニスより待遇の良い者があるのかと。


 残る剣闘士の面々は、一斉に「おお!」と腕を突き上げた。

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