第6話
休日には、稽古を欠かさないようにしている。
今日も神楽は、席を置いている道場で一汗かいた。
道場へは自宅から自転車で二十分ほど走って通っている。警察官だけが通う道場で、精鋭が集まっているわけではないから、子どもの頃通った剛心館のような緊迫感はないが、気楽な気持ちでいい汗をかける場所だ。
稽古を終えてからなら付き合ってもいいと、そう具同に伝えたとき、
「あんた、相変わらずね」
と、冷たい視線を返された。続けて、
「あんな野蛮なこと、何がおもしろいんだか」
とも言われた。
記憶をたどってみても、叔父が柔道をやっていた場面は思い出せない。柔道の盛んな町で、しかも神楽の親類には、柔道の段保有者が何人もいる。特に母の親戚筋には、豪の者が多かった。
そんな中で、具同は異質な存在だっただろう。はっきりとした違和感は憶えていないが、さぞ生きにくかっただろうと想像できる。
ただ、いくら性に合わなかったとしても、素質はあるはずだ。一度、稽古に誘ってみようか。そんな考えがふと頭に浮かび、浮かんだ先から、神楽は首を振って否定した。
故郷の環境が息苦しくて、飛び出した挙句、叔父の今の生活があるのだ。自分の価値観を押し付けては、故郷の親戚筋と同じになってしまう。
嫌われたくない。
なぜか、神楽の中に、叔父との時間を好ましく思う気持ちが芽生えている。
一度自宅へ戻り、シャワーを浴びてから、神楽は待ち合わせをした横浜駅へ向かった。
西口の改札前で、人ごみの中に立った。改札前は地下街に続いている。改札からも地下街からも、デモか何かのように人が溢れてくる。
酔った勢いで承諾してしまったが、今日一日を思うと、神楽は憂鬱だった。仕事でもないのに、聞き込みの真似事をしなくてはならない。しかも、身内と。
今日の行動が、上司にでも知られたらと思うと、それも憂鬱の種だった。
時間が経つにつれて、人の流れは多くなる。
もっと分かり易い場所で待ち合わせるべきだった。そう思ったとき、神楽は肩を叩かれた。
振り向くと、黒いキャップを目深にかぶった中年の男性が立っていた。
「おまたせ」
具同だった。
「あ、どうも」
会うたび印象の変わる人だ。今日の具同は、ごく普通の、どこにでもいる中年男性だった。初めて会ったとき聞いたように、普段はごく普通の服装をしているのだろう。深緑色のTシャツに薄手の同じ色のパーカを羽織り、ジーンズを履いている。
「あんた、切符、もう買った?」
ううんと首を振ると、具同は先へ歩き出した。そして券売機の前へ立つ。
「ほら、あんたの分も買ったわよ。あんた、まだ若いから、薄給でしょ」
「あ、ありがと」
向かう先は、江東区南砂町。最寄駅は、地下鉄東西線の南砂町。新橋まで東海道線で行き、そこから二つ地下鉄を乗り換える。スマホのアプリで調べたという具同の言いなりに、電車に乗り込んだ。
空はよく晴れていた。初夏を思わせる眩しい光が、混んだ車内に差し込んでいる。
座るつもりはなかったが、
「ここ、ここ!」
と具同に強引に手を引かれ、座席に隣同士に座るはめになった。座った途端、具同は腰に巻いていたポーチから、のど飴を取り出した。
「ほら、食べて」
つい受け取り、期待の込もった具同の視線を感じながら、飴を口に入れる。柑橘系の優しい味が口全体に広がった。
「おいしいでしょ? お客さんに三重県の人がいて、特別なみかんで作った飴なのよぉ」
なんだか奇妙な感じだった。子どもの頃に戻ったかのように、なぜか、安心していられる。
「あんた、付き合ってる人、いるの?」
唐突な質問だったが、具同のペースに慣れ始めている。
ううんと神楽は首を振った。
「やっぱりね。休みの日に付き合ってくれるんだから、そんなことじゃないかと思った」
よく言う。もし、こちらに予定があったって、変更させたんじゃないか?
「結婚しないとか、そういうつもりはないんでしょ?」
「わかりません、そんなこと」
「どっちでもいいけどね。でも、楽しいよね。あんたが結婚して子どもが生まれたら」
何、言ってんだ、この人は。
「かわいがっちゃう、あたし」
世の中は女性の社会進出に寛容になったし、たとえば母の時代に比べれば、大きく認識は変化している。一般企業ではめざましい変革があるのかもしれないが、警察ではどうだろう。
黙ったまま窓の向こうに流れていく鉄橋を見ていたら、ぽそりと具同が呟いた。
「好きな人の子どもが産めるって、すばらしいことよ」
電車は多摩川を越え、品川へ向かおうとしていた。
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