第35話
「大森駅近くに、鹿野という動物病院があります。そこの院長である鹿野洋一氏が、尾美が亡くなる1年ほど前から交流があった人物です」
「動物病院の院長ですか」
「はい。尾美は拾った猫をかわいがってましてね。ところがその猫、捨て猫だったせいで深刻な病気にかかっていたらしく、それを治療してやったのが鹿野院長だったようです」
「尾美は当時、ペットを動物病院へ連れていくようなお金を持っていたんでしょうか」
神楽に経験はないが、ペットの治療費は高額だと聞いた憶えがある。
「持ってませんよ。そもそも、尾美が連れていったわけではなく、たまたま尾美の暮らすアパートの近くで猫を連れた尾美を見かけた鹿野院長が声をかけたようです」
「なるほど」
「それから鹿野院長は、尾美の生活全体をあれこれ心配してくれるようになったらしく、当時、尾美が身につけていた真新しい服も、鹿野院長が用意してくれたものだったようです」
「どうしてそこまで」
「この鹿野院長という人物は、社会貢献の精神に長けた人で、生活苦の人たちを助ける活動をするボランティア団体に所属しています。あちこちで活動していたようで、尾美のこともその一環だったんでしょう」
社会のために役立つ活動をする。
そういった高邁な精神を持つ人物が、世の中には案外多いことを、神楽は警察官になってから知った。
そういった人物に出会うたび、襟を正す思いにかられたものだった。
「尾美はずいぶんその捨て猫をかわいがっていたようで、鹿野院長には感謝していたようです。その頃から尾美の生活態度は変わり、定職を探そうとまでしていたようです。それなのに、あんなことをしでかして」
「事件当時の尾美からは、コンビニ強盗は意外な犯行だったと思いますか」
「ええ。だからわたしも調べてみようと思いまして。それで、鹿野院長のことを知ったんですよ」
なぜだろう。なぜ、尾美は急にコンビニ強盗をするまで追い詰められたのか。
「尾美が立ち直ろうとしていたのは、鹿野院長の励ましや親切も響いたからでしょうが」
林警部補は、しんみりと続けた。
「猫のおかげだと思いますよ」
「猫?」
「ええ、ペットです。自分には守ってやるべき存在がいる。その思いが、尾美を変えようとしていたのかもしれません」
「わたしが調べた羽根木俊太も、猫の世話をしていました」
「そうですか。その羽根木も尾美も、猫に孤独を癒されたのかもしれない」
「ええ」
だが、そのせいで、津村さくらと出会うはめになってしまったのなら。
暗澹たる気持ちを振り払って、神楽は確認した。
「鹿野院長の口から、津村さくらの名前は出ませんでしたか」
「聞いてないですね」
きっぱりと警部補は答える。
「だが、当時の尾美についてを知るなら、鹿野院長に会ってみるのもいいかもしれません。おそらく、快く承諾してくれますよ」
鹿野院長の連絡先を聞き、神楽は林警部補との会話を終えた。
猫に孤独を癒された。
よく聞く話であり、その気持ちはわかる。
もし、警察官という仕事をしていなかったら、自分もペットを飼ってみようと思ったかもしれない。
日々、警察の仕事に追われている。孤独を感じる暇はない。
だが、それだけではないと神楽は思う。
この仕事の醍醐味は、人に社会に必要とされているところだ。世間が思うほどかっこよくなく、給料もいいとは言えず、地味で、忍耐ばかりが要求される仕事だが、やりがいは大きい。
このやりがいが、自分を孤独から救ってくれていると神楽は思う。
鹿野院長の連絡先を書いたメモを畳み、神楽はソファに体を横たえた。
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