第3話
瀬谷は言葉通り、すぐに林警部補に会う段取りをつけてくれた。
すぐに約束が果たされたのは、林が定年間近で比較的時間的に余裕があったせいだろう。
瀬谷と電話を交わした翌日、神楽は新宿署に近いカフェで林を待った。
新宿という場所柄か、チェーン展開をしているカフェには、若いカップルや、ただパソコンの画面に見入っている自由業らしき服装をした客の姿が目についた。
神楽は腕の時計を見た。夜の八時過ぎ。こんな時間に初対面で面談を申し込むなど迷惑だとは思ったが、仕事を終えて横浜から新宿に出向くには、これ以上早い時間は無理だった。
きゃははと、若い女の子の笑い声が響き、その声に顔を上げたとき、入口に現れた硬い印象の男性が目に留まった。どちらかというと小柄な体格に、ごま塩の頭髪。まわりの雰囲気とそぐわない真面目な表情。スーツはどことなくくたびれ、肩から下げた鞄も流行遅れだ。ただし、まわりを見る目つきが鋭い。
あれだ。
神楽は確信した。同じ警察官同士、雰囲気でわかる。もちろん、大きく外れる場合もあるけれど。
「あの」
声を上げると、件の男性が、神楽に目を留めた。そして、あなたが?と言うように、首を傾げてみせる。
「林さんですか」
まだ、距離がある。まわりの視線を慮って、あえて、苗字だけで呼ばせてもらった。
「――時島さん?」
大きく頷き、神楽は自分の前の席を促した。
「突然、申し訳ありません、林係長」
姿勢を正して、神楽は言い直し、自己紹介をした。林の階級は神楽より二階級上の警部補だが、本署勤めの刑事は、所轄の警部補を『係長』と呼ぶ。
「あなたが柔道大会で、三年連続優勝したという……」
光る目で見つめられ、神楽は思わず俯いた。警察内で初対面の相手の場合、こちらは知らなくても、相手は自分を知っている場合が多い。神楽の得意技から、「袈裟固めの神楽」と言われているようだ。
「その強さはどこから来るんだか、一度お聞きしたいと思っていたんですよ」
「そんな。ただ、練習を繰り返しているだけで」
顔を赤くしながら、神楽は強さについて訊かれたときの、いつもの返事をした。実際、自分でも、自分の強さの理由はわからない。ただ、自分はすさまじく負けず嫌いだと思う。試合が始まると、アドレナリンが半端ないのだ。試合運びの作戦も何もない。ただ、戦い始めると、まるで動物のように牙を剥いてしまう。
そんな自分の闘争心を、神楽は普段なるべく押し隠している。まだ結婚願望はある。誰かに甘えてみたい夢もある。
「何か飲み物を買ってきます。コーヒーでいいですか」
まわりを見回しながら頷いた林は、財布から小銭を取り出した。
「ここはご馳走させてください」
「いやいや、そういうわけにはいきません」
神楽は小銭を受け取って、コーヒーを買いに行った。戻ってくると、林はテーブルの上にB5版のノートを開いていた。新宿にあるチェーン店だから仕方がないが、小さなテーブルと椅子が、小柄とはいえ成人男性には窮屈そうに見える。
「こんなところにお呼びして申し訳ありません。ただ署に近い目立つ店というと、ここしか瀬谷さんが思いつかなかったみたいで」
「いや、構いません。入ったのは初めてですが、コーヒーが安くていい。そんなことより」
コーヒーを一口、いただきますと言ってから口にすると、林は目を細めて神楽を見た。
「神奈川県警のあなたが、どうしてあの事件について知りたいのか」
「それは……」
「瀬谷くんの話だと、個人的にということでしたが」
「わたしの叔父が、あの事件の被害者の一人の知り合いなんです」
あの事件について知りたがる理由を訊かれるだろうと、覚悟していた。新宿に向かう湘南新宿ラインの電車の中で考えてきた理由を口にする。
「被害者というと」
「あのコンビニで働いていて、あの事件に出くわしてるんです。怪我などはしてないんですが、精神的にかなり参っているようで」
半分ほんとうで、半分嘘だ。具同の店の子の知り合いが、精神的に参っているかはわからない。
「あそこの店員……」
林警部補は眉をひそめた。
「そりゃ、災難でしたね。死者が出たんですから。そんな現場を目の当たりにしたら、普通はトラウマになる」
神楽は頷いた。
「それで、あの、正当防衛で強盗犯を刺した女性について知りたがってるんです」
「津村――」
林警部補は、ノートの頁を開いて、
「さくらさんについてですね」
と続ける。
「知ったからってどうにもならないとは思うんですが、彼曰く――叔父の知り合いは男性なんですが、強盗犯がやって来て、店の中が騒然としたとき、ただ呆然としてしまった自分と違って、津村さくらという女性は立ち向かっていった。自分も何かできたんじゃないかって」
「――そうですか」
神楽は後ろめたくなった。自分の作り話を、初老の真面目な雰囲気の警部補は、信じてくれたようだ。
「でも、叔父さんの知り合いの方は、何も反省する必要はありませんよ。津村さくらさんは尾美に立ち向かっていったんじゃない。たまたま偶然、尾美ともみ合った末に尾美を刺してしまったんですから」
「どんな状況だったかご存知ですか」
林警部補の表情が歪んだ。
「悪いのは尾美です。だから、仕方ない結果となった。その前に」
二口目のコーヒーを口にすると、林警部補はテーブルのノートに視線を落とした。
「これは、わたしがあの事件について、仕入れた情報を集めたものです」
パラパラとノートが開かれる。びっしり文字が並んでいるのが見えた。
「死んでしまった尾美義昭を、わたしは一度逮捕したことがあります。あいつはなかなか立ち直ることができないやつでね。刑務所から出てくると、そのたびに事件を起こしました。わたしが逮捕したあとも、民家に空き巣に入って……。だが、あいつは、根っからの悪人じゃないんですよ。育った環境や運が悪かったことが大きく影響している。そう思っていたもんですから、あの事件を起こして死んでしまったと知ったとき、非常に不憫に思いました」
警察官だって人間だ。罪を犯した人間にたいして同情してしまう場合がある。そんな経験は、神楽にもあった。
「わたしがこうしてあの事件についてまとめたのは、気にかけていた尾美が起こした事件というのもありますが、それだけじゃありません」
神楽は問いかけるように首を傾げた。
「奇妙だなあと思う点があったからなんです」
ノートの頁がめくられた。
「犯行当時の尾美の住まいは、大田区大森です。盗みに入るなら、なぜ、もっと近くのコンビニを狙わなかったのか。新宿の富久町は、尾美の生活圏から遠い」
「遠いからこそ、狙ったんじゃありませんか。近くだと、顔を覚えられていることもあるかもしれません」
「尾美は窃盗のプロじゃない。いままで微罪を含めて、様々な犯行を繰り返していますが、どれも知り合いのチンピラに脅された末だったり、行き当たりばったりだったり。計画的でもないし一貫性もない。そういう者は、金に困って衝動的に犯行に走る場合、生活圏内や土地勘のあるところを選ぶんです」
それが自然だろう。神楽もそう思う。
「ところが今回は、新宿だ。どうして尾美はあのコンビニを選んだのか」
「どこかへ出かけた途中なんじゃないですか」
「その足取りも探ってみましたが、尾美がなぜあの界隈に行ったのかわからなかった」
ノートの頁はめくられる。
「もう一つは、犯行前、一年ほどに渡って、尾美と親しくしていた人間がいたようだということです。尾美はいつだって、誰かに利用されていました。でも、尾美は人間嫌いで他人と長期に渡って関係を築くのが難しいんですよ。そんな尾美のまわりに、犯行前、誰かがいた」
「どうしてそれがわかったんですか」
「尾美は定職に就かず、日雇いの仕事が見つかったときに働いていたんですが、そういった仕事を回す差配師の男が、尾美がときどき真新しい服を着ているのを見ているんです。差配師が訊くと、人にもらったと言っていたようです。そんなことが、二度、三度あった」
林警部補は軽く咳をしてから、コーヒーを飲んだ。
「あの犯行に至る前に、尾美の周辺で変化があった。わたしにはそう思えた」
「津村さくらについては?」
神楽が訊くと、林警部補は、首を振ってため息をついた。
「彼女を責めるわけにはいきません。彼女は尾美によって人生を狂わされたでしょう。故意ではないにしろ、殺人を犯してしまったんですから」
「避けようのない事態だったと、警部補はお考えになりますか」
自分だってそう思っている。叔父――具同だけが意を唱えているのだ。
「四月十七日、午前一時半過ぎ、尾美は、新宿区富久町の曙橋交差点にあるコンビニに入りました。レジの金を盗むつもりで、脅しのために、ポケットには刃渡り二十センチほどのナイフを忍ばせていました。担当の刑事から聞いたところによると、尾美は店に入ると真っ直ぐレジに向かっています。正面の自動ドアから入ると、すぐ左手にレジ台があるんですが、二台あるうちの奥のレジに向かって進んでいます。店の防犯カメラに、くっきりと尾美の姿が映っているそうです」
神楽は頷いた。
「レジに店員はいませんでした。品出しの最中だったようで、尾美の背後、ドリンクの棚の前にいたんです。レジの近くには、レジに背を向けて女性客が立っていました。それが、津村さくらさんです」
「真夜中の一時半ですよね。店内には何人ぐらい客がいたんですか」
「五、六人ですね。あの辺りは、夜中でも人の行き来が途絶えないところですから」
報道によると、怪我をしたのは津村さくらのみだった。
「尾美はそのままレジのカウンターの中へ入ろうとした。そのとき、レジに向かおうとしていた女性客――津村さくらさんとは別のひとです――が、尾美の手にあったナイフを見て、叫び声を上げたんです。そこから店内は騒然となった。叫び声に気づいた店員が駆けつけ、店のバックヤードからも、別の店員が飛び出してきた。この時点で、店の中にいた別の客たちは外へ逃げ出し、その中の一人が警察へ自分のスマホで通報しました」
「バックヤードから出てきた店員は、店の防犯ブザーを鳴らさなかったんですか」
「防犯ブザーはレジの下です。店員がブザーに手を伸ばす前に、事態が進んでしまったようで」
「事態というのは」
ふうと、林警部補は重いため息をついた。
「尾美はすぐさま、すぐ後ろにいた津村さんを引き寄せて、自分の盾にしたんです。ナイフを彼女の首筋に当てて」
「そんな」
「そうなった瞬間に、尾美に襲いかかろうとした店員二人は動きを止めた」
「津村さんは、店に入ってきた女性客が叫び声を上げた段階で、なぜ、すぐに逃げなかったんでしょうか」
「逃げようとしたんでしょう。尾美が店内に入り女性客が叫び声を上げ、それから津村さんが人質となるまで、時間にしたら三分も経っていないでしょうから」
「それにしても。尾美から離れることはできたんじゃ」
「怖くて体が固まってしまい動けなかったと、そう言っていたそうです」
無理もないかもしれない。若い女性が、こんな場面に出くわして、すぐに自分を守る行動が取れるものじゃないだろう。
「だが、津村さんには運があった」
「運?」
「そうです。尾美と津村さんがもみ合う直前、尾美はレジ前に陳列されていたセール品の菓子の棚の脚に引っかかって状態を崩したんです」
「だから、もみ合いに」
「ええ。尾美は転がり津村さんともみ合いになった。そして、津村さんに向けられていたナイフは、津村さんが振り払った拍子に尾美の手を離れた」
「それがどうして尾美の体を刺したんですか」
林警部補は、ふうと息を吐いた。
「すごい偶然ですよ。尾美の手から離れたナイフは、倒れた津村さんの右脇の間に落ちて、なんと、刃先を上に向けたまま津村さんの脇で留まったんです。そして覆いかぶさってきた尾美を刺した」
「そんなことが」
「現実にあるんですよ、こんな偶然が。店には防犯カメラが八台ありましたが、この様子は、レジ上のカメラに鮮明に映っていたらしいです」
「店員はどうしていたんですか」
「どうもこうも。あっと言う間の出来事だったんですよ。津村さんの上で、尾美がぐったりとなった直後、ようやくレジ下のブザーが押され、入口付近にあるパトライトも回転し始めたようなんですが、そのときにはもう、客の誰かに通報を受けたパトカーが到着したそうです」
思いがけない瞬間に、人は死ぬ。こんなことでというような出来事で、人はあっけなく命の火を消されてしまう。そんな事例を、神楽も知らないわけではなかった。
たまたま。
偶然に。
落ちたナイフが犯人の急所を突いた。
「津村さんは、何か格闘技のようなことをしていた方だったんですか」
彼女が故意にナイフを尾美に向けなかったとしても、自分を守る体勢を作ったかもしれない。
いやあと、林警部補は首を振った。
「普通の二十四歳の派遣社員の方のようですよ」
「正当防衛だったんですね」
「それは間違いないと思います」
林警部補は、はっきりと言った。
「店員二人の目撃者がいますからね。裁判にもなりませんでした。同じ警察官のあなたに、正当防衛の定義を話すのは、余計なお世話でしょうが」
そう言ってから、林警部補は続けた。
「急迫不正の侵害に対して、自己または他人の権利を防衛するため、やむを得ずした行為というのが、刑法三十六条の一項に記されています」
神楽は頷いた。警察官としての基礎知識だ。
「そして、本来なら違法行為となるものも違法として扱われなくなり、刑罰を受けないと謳われています」
「過剰防衛でもなかったと、そう思われますか」
すると、林警部補は、ふむと頷いた。
「線引きが難しいところではありますが、何せ、尾美は死んでしまったのですから。でも、津村さんの場合は、自分からナイフを奪ったわけでもない。たまたま落ちたナイフを自分の体が挟まり、そこへ尾美が倒れてきた。問題にはされなかった」
誰も、津村さくらの正当防衛を問題にしていない。一人、叔父、具同瑛太以外には。
「その後、津村さんはどうなさっているかご存知ですか」
ノートがぱたりと閉じられた。
「さあ、そこまでは。平穏な生活には戻れなかったでしょう。一時期、ネット上で、英雄みたいに騒がれたようで」
神楽は頷いた。津村さくらに、事件後、静かな日々は訪れなかっただろう。もしかすると、隣近所の人間にも犯人を返り討ちした女性として知られてしまったかもしれない。いや、ネット上で話題になったということは、見ず知らずの誰かにも住所や勤め先を特定されたかもしれない。
林警部補との話は、一時間ほど続いただろうか。
神楽は店の前で林警部補と別れると、その足で横浜へ帰った。
横浜駅に降り立ったとき、自宅に向かう地下鉄に乗り換えようとして、思い止まった。
なるべく近いうちに、津村さくらについてわかったことを報告に来て。
そう言った叔父の顔が浮かぶ。
林警部補の話から、事件の詳細はわかった。わかってみると、津村さくらの行動に、何の疑問も起きなかった。叔父にそれを伝えればがっくりするだろうが、返事をいつまでも待たせておくのは申し訳ない気持ちはある。
神楽は立ち止まってハンドバッグからスマホを取り出すと、叔父の店のアドレスを地図アプリに打ち込んだ。
すぐに経路が出た。
まずは私鉄に乗り、二つ目で降りる。降りたら、映画館を目指して歩く。叔父の店は、映画館の裏手のビルの三階のようだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます