第4話

 野毛の街は人で溢れていた。


 間口の小さい飲み屋が連なる通りを進んでいくと、どこからか焼き鳥の香ばしい匂いが流れてきた。酔客の笑い声もそこかしこで湧き上がる。


 地図アプリの経路案内に従って、いくつか路地を抜けると、目印となる映画館が見えてきた。知る人ぞ知るマニアックな映画を上映する映画館だ。正面に貼られた男性同士が絡み合うポスターを横目に、進んで行くと、目的の建物が見えてきた。


 叔父の店が入ったビルは、築三十年は経っていそうな四階建ての古びたビルで、予想通りエレベーターはなかった。

 トントンと音を立てて、階段を上る。

 三階に着くと、廊下の先に『ルリタテハ』の看板が見えた。薄紫色の光の中に、濃い紫色の文字が浮かんでいる。

 店の前には、勢いよく伸びたサボテンの鉢が置かれていた。そのサボテンの針に触れないよう注意しながら、店の様子を伺った。扉に窓はついていない。中から、昭和歌謡らしきカラオケと笑い声が聞こえてくる。

 仕事でこういった店に入る機会は、何度もあった。管轄に、この手の店が多い野毛を抱えているのだ。


 だが、今回は、いつもとは違う。

 ここは、叔父の店なのだ。


 ギッと音を立てて扉を開くと、眩しい点滅する光にさらされた。天井からぶら下がるミラーボールがキラキラと輝いている。

 小さな店だった。十坪もあるだろうか。五脚の椅子が並んだカウンターのほかに、テーブル席が一つ。カラオケを楽しんでいるのは、テーブル席の中年の女性二人組だった。

 どうやらここは、いわゆる「観光バー」らしい。ゲイバーではあるが、ノンケの男性や一般の女性も入れる店なのだ。


「いらっしゃい」

 カウンターの向こうから、赤い髪の女性が、顔を上げた。途端に、その顔がぱっと輝く。

「神楽!」

 赤い髪の女性は、具同瑛太その人だった。前回会ったときは金色だった髪が赤くなっている。どちらもカツラなのかもしれない。

「――あの」

 扉の前に突っ立って声を上げると、具同は威勢のいい声で、

「ここ! ここに座って!」

とカウンターの、具同のいる場所にいちばん近い席を示した。

 椅子は思ったよりも硬かった。その上、高さがある。身長一六〇センチの神楽の足先がようやく床に着く。


「嬉しいわ。来てくれて」

 おしぼりを差し出されて、

「どうも」

と、神楽は受け取った。捜査でこういった店を訪れる場合は、遠慮なく辺りを見回すが、そういうわけにもいかない。

「何、飲む?」

「あ、なんでも」

「なんでもって、お酒でいい?」

 頷く。

「ビールかな?」

「それでいいです」

 瞬く間に、こんもり泡の立ったビールが、細長いグラスに入ってきた。


「まずは乾杯ね、再会を祝して」

 自分用にも注がれたビールのグラスを顔の前に掲げ、具同はにっこりと笑った。

 冷たいビールは喉に心地良かった。その途端に、お腹がグーと鳴った。林警部補とはコーヒーだけで話をした。それまでは忙しくて、昼食も摂れなかった。夕方に、パソコンに向かいながら、クッキーを二枚つまんだだけだった。

「それで?」

 くうっとビールを飲み干した具同が、訊いてきた。

「ここに来てくれたってことは、調べてくれたのよね?」

「それが……」

「何?」

「事件が起きたコンビニの所轄の警察官に会うには会ったんですけど」

 声に力が入らず俯くと、具同が覗き込んできた。


「あんた、もしやお腹空いてる?」

 図星を刺されて、つい、

「はい」

と答えてしまう。

「食べてないの?」

「忙しくて」

「何時から?」

「お昼を摂る時間がなくて」

「やだ、もうすぐ夜の十時なのよ」

 目を大きく見開いた具同は、さっと身を翻すと、カウンターの奥にあるコンロに向かった。背中で、

「ちょっと待ってなさ~い」

と叫ぶと、すぐさま何やら刻み始めた。

「腹ごしらえをして、話はそれからね。ったく、お腹が空くまで働かされるなんて、日本の警察はどうなってんの? 美佐子姉ちゃんが聞いたらぶったまげるわよ」

 そんなことをぶつぶつ呟きながら、カウンターの中で忙しなく動く。コンロの火が点けられ、ジュウッという油の音が響く。


 母の名前が出たせいでもないだろうが、妙に寛いだ気分になった。

 やっぱり、血がつながっているからだろうか。

 前回会ったときより、後ろ姿の肩のラインがたくましく見えた。耳から下がった細長いピアスが、具同の動きに沿って小刻みに揺れている。

 その揺れをぼんやり眺めたいたせいか、顔を照らすミラーボールの光のせいか、ひどく眠くなってしまった。


 おかしなものだと、思う。身内がいると思うだけで、こんなに無防備になるなんて。

 警察官になって、十年。上京してからは、十四年になる。ずっと一人で生きてきた。どんなときも、気を張り詰めていたように思う。

 ふいに、目の前ににんにくの焦げたいい香りが立った。

「ほら、食べて」

 丼にこんもりご飯が盛られ、その上に、またこんもりと暑切り肉がのっている。

「うちの牛丼は、焼肉牛丼よ」

 大きめに切ったカブの味噌汁まで添えられている。

「いただきます」

 神楽は箸を手に取った。


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