第5話
「じゃ、津村さくらについては、なんにもわかんなかったってこと?」
神楽が林警部補から聞いたあらましを話すと、お茶のおかわりを注いでくれながら、具同は拗ねた声を上げた。
「すみません。でも、そもそも、話をしてくれた警察官も、津村さんが正当防衛だったことについては疑問の余地がないと」
「だから、それが違うのよぉ!」
ああ、もう、焦れったいと続けたとき、カラオケを楽しんでいた客からドリンクの注文があった。はあいと返事をする。
「あんた、ガキの使いじゃないんだから!」
はあいとは違った声音で、具同は乱暴に客の注文のビールサーバーのノブを押した。
「その新宿の警察官の話を聞いて、あんたも刑事として、津村さくらが正当防衛だったと思うわけね?」
お茶を飲み込んでから、神楽は頷く。
「ちょっと待ってて」
ビールを手に、具同はカウンターを出た。神楽の横を通りしな、ちょっときつめの香水が香る。母は香水の嫌いな人だった。弟がまとっているこの香りを嗅いだらどんな顔をするだろう。
「ま、予想通りではあったけど」
カウンター席に戻って来た具同は、神楽の横に腰掛けた。
「警察なんていう大きな組織は、一度決まったことに疑問を投げかけるなんて有り得ないから」
「そういうわけじゃなくて」
「ま、いいわ」
自分用に二杯目のビールを注ぎながら、具同は続けた。ずいぶんお酒が強い。こんなに店側で飲んでしまったら儲けは出ないんじゃないか。そんな心配をしてしまう。
「ほんと言うとね、あんたの報告にそれほど期待してたわけじゃないの」
えっと、神楽は顔を上げた。
「津村さくらが怪しいってのは、もう、確信なの。あんたや、あんたの後ろにある巨大な組織がなんと言おうと、あたしは津村さくらが正当防衛だったとは思ってない。それは変わらない。だけど、問題はこれからのこと」
「これから?」
意味がわからない。
「そう。これから起きる犯罪について」
「犯罪?」
穏やかじゃない。
「津村さくらは、またやるわよ」
「――やるって」
「あの女は、また殺しをするってこと」
お酒のせいか、少しばかり充血した目で、具同は神楽を見据えた。
思わず神楽は笑ってしまった。一体、何を言っているんだか。自分の叔父は、見た目通り、ちょっとファンタスティックなメンタルの持ち主なのかもしれない。
「あんた、笑った? 笑ったよね、今!」
「い、いえ、笑ってません」
「ううん、笑った!」
徐々に、具同の目が座ってくる。
「あたしは津村さくらの正体を暴いて、次の犯行を阻止しようと思ってるのよ」
「はっ?」
のけぞりそうになった。まったく、この男、いや女は、何を言い出すのだ。
そう思ったとき、店のドアが開いた。
「タツヤー!」
具同の叫び声に、神楽は今度こそほんとうにのけぞった。目の前でこんな大きな声を出されたらたまらない。
「よかった、間に合った」
胸の前で大きな紙袋を掲げて、タツヤと呼ばれた男性が近寄ってきた。
ドサリとカウンターの上に、紙袋を置く。紙袋の中から、ネギやホウレンソウの先っぽが覗いている。
目の前に立つタツヤに、神楽の目は釘付けになってしまった。
きれいな男。そうとしか言いようがなかった。磨かれた石のように、白く引き締まった肌。くっきりとした顎の線。通った鼻筋。そして、長い睫毛。瞬くと、それだけで何か物語を語っているかのよう。
全体に、小柄で華奢な体型だった。それを強調するかのような、黒のぴったりとしたTシャツと、これもぴったりとした黒のジーンズ。
「言われたモノ。いろいろ買ってきたよ」
見た目より、タツヤの声はハスキーだった。
「カグ、見つめすぎ」
思わず頬が熱くなった。
「好きになっても無駄よ。タツヤは男にしか興味ないんだから」
別にそんなつもりはと、具同を睨む。タツヤは、どう見ても十代後半だった。神楽は、年下の男に興味は湧かない。
「この子がね」
と、具同は買い物袋を受け取った。
「事件があったコンビニでバイトをしてる男の子の知り合い」
タツヤが頷いた。
「大切な彼、なのよね?」
ふたたび、タツヤは頷く。ちょっと頬を染めて。
「そしてこちらが」
と、具同が掌を神楽に向けた。
「あたしの自慢の姪。神奈川県警の刑事、神楽ちゃんよ」
タツヤの目が丸く見開かれた。
「お願いします。あの女を捕まえてください」
「それは、無理。叔父さんにも説明したんだけど、あれはどう見ても」
「わかったんです、あの女の家が」
「すごいじゃない、タツヤ!」
具同がすかさず叫んだ。
「僕の彼、ケッタって言うんですけど、ケッタが翌日彼女を見かけて後をつけて、住んでるところを探り出したんですよ」
「どうしてそんなこと」
「かっこ良かったかららしいです」
タツヤが悪びれず、言った。
「人が亡くなってるのに不謹慎ですけど、反撃してあっと言う間に、相手を仕留めちゃったんですよ。ケッタ、最近格闘技に凝ってて、あの女に惚れこんじゃって。といっても、男女の意味じゃありませんからね」
最後のところはどうでもよかったが、神楽はちょっと違和感を覚えた。目撃した者が、かっこいいと思えるような反撃。そんなことが、派遣社員の普通の二十四歳の女性に可能だろうか。
「ね、いっしょに行ってくれるでしょ」
「――行くって?」
「津村さくらが住んでるところに決まってるじゃないの!」
そんな、どうしてわたしが?と言おうとしたとき、タツヤが、
「よかったあ」
と叫び、カラオケが始まって、
「無理、無理」
と呟いた神楽の声をかき消されてしまった。
「カグ! 次の休みはいつ?」
耳元で怒鳴られて、つい答えてしまう。
「来週の水曜日」
「じゃ、決まり」
まるで雪崩だ。ドドドッと押し寄せてきた具同の勢いに飲み込まれた感じ。
挙句、翌週の水曜日の午前一時半。神楽は横浜駅へ行くと承諾したのだった。
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