第2話
傷害や窃盗に放火。
呆れるほど、日々、世界は事件に満ちている。
神奈川県は人口九百万を抱える巨大地方自治体だ。その神奈川県を管轄とする神奈川県警は年間三万三千件強の事件を抱える。
神楽は抱えている仕事にかまけて、叔父に頼まれた調べ事を後回しにした。
いや、本気で取り組もうと思っていたとは言い難い。津村さくらという名前を、ネットで調べてみることすらしなかった。大体、津村さくらが関わった事件は、茨城と都内のことだし、管轄外の事件について知ろうとするのは何かと問題視される。
叔父の突然の訪問から、一ヶ月が経とうとしていた。捜査一課には深刻な問題が持ち上がっていた。署内で起きた不正事件の捜査で内部観察が入り、捜査一課も上司や同僚共々聴取を受けなくてならなかったのだ。
聴取に向けて、揃えなければならない書類が膨大にあった。連日夜の九時を過ぎるまで、神楽はパソコンの前に座り、書類制作を続けていた。
そんな忙しさの中、津村さくらについて調べてみようかと思ったのは、同僚の樫田が呟いた一言からだった。
壁の時計の針が九時を回った頃、今夜も樫田は、神楽の元へやって来た。
樫田はコーヒー片手に神楽の隣の机の椅子に座ると、例によって愚痴をこぼし始めた。樫田は大学ではラグビーをやっていたという男で、縦も横も大きい目立つタイプだ。見た目も熱ければ、気持ちも熱い、警察官になるために生まれてきたような男だ。そんな樫田が、案外執念深くくよくよと物事を気に病む性格であるのを、この署でいっしょになったときから気づいている。
だが、神楽は、そんな樫田が嫌いではない。男としてはタイプではないが、なんとなく憎めないかわいらしさが樫田にはあると思う。
「まったく、たまんねえよー」
樫田は今夜も今回の内部監査に憤りを口にした。
「俺たちを疑うなんて言語道断なんだよ」
樫田が愚痴を言うとき、神楽はほとんど返事をしない。こういうタイプは、自分の気がすむまでしゃべれればそれでいいのだ。
キーボードに置いた指先を動かしながら、そうねと相槌だけを繰り返していたとき、樫田が言った。
「こんなことなら、田舎に帰って交番勤務をしたほうがましだよな~」
「樫田くんの田舎、どこだっけ」
大きく伸びをし、神楽は樫田を仰ぎ見た。ちょうど一段落過ぎたし、細かい文字を見続けるのに疲れたからでもあった。
「茨城だよ」
そう、と返したとき、ふいに叔父の顔が蘇った。
叔父に調べるよう言いつかっていた津村さくらが、レイプ事件の被害者になったのは、茨城の水戸ではなかったか。
思い出した瞬間、夏休みの宿題をほったらかしにして、八月三十一日を迎えようとしているような居心地の悪さを感じた。
「水戸?」
続けて尋ねると、樫田はふわーっとあくびをしながら、
「そ。といってもはずれのほうだけどね」
「ふうん、水戸か」
「何?」
「なんでもない」
叔父から聞いた話を樫田にするわけにはいかない。突拍子もない話だと、樫田は一笑に付すだろう。
樫田が去ったあと、神楽はすぐに新宿警察署にいる同期にメールを送った。
瀬谷真守【せやまもる】。大学の同級生だ。
叔父から津村さくらについて調べて欲しいと言われたとき、ほんとうは瀬谷の顔が浮かんだのだ。だが、あのときはすぐに浮かんだ顔を葬った。本気で聞いていなかったのだ。といって、今、どこまで自分が本気かはわからないが。
瀬谷は、男友達の中で、いちばん心を許しあって話せる相手だと思っている。といって、男女の関係があるわけじゃない。瀬谷は剣道の盛んな地域で生まれ育ち、厳しい稽古づくしの少年時代を送っている。柔道と剣道の違いはあるが、武道に向き合ってきたという似た環境からか、気持ちの底の部分で通じるものがあるのだ。
だから、学生時代、瀬谷も警察官を目指していると聞いたとき、納得できた。入学した警察学校が違い、警察官になった場所は、警視庁と神奈川県警の違いはあるが、根っこが同じ気がしている。
半年に一度はメールをやり取りしている仲だ。男女でも、そんなふうに付き合える相手がいるのは有難い。警察官になってはじめの数年は、女性警察官同士で仲間を作ったりもしたが、結局長くは続かなかった。結婚して辞めてしまう者もいたし、刑事を目指す者は少なかったせいで、話が噛み合わなくなった。警察の世界も、一般企業と変わらないなと思った憶えがある。
メールでは、聞きたいことがあるとだけ記した。瀬谷にも、詳しい話をするつもりはなかった。津村さくらが遭った事件について、ちょっとしたことを聞ければそれでいい。そう思った。
瀬谷から返信が来たのは、翌日の午後を過ぎてからだった。瀬谷も忙しくしているようだ。今、どんな事件に関わっているかはわからないが、新宿署は暇なときなどないと聞いている。
メールを貰ったのが夕方だったから、神楽は思い切って電話をかけた。久々の会話であるにも関わらず、瀬谷の声は親近感に溢れていた。
「ごめんね、忙しいところ」
遠慮気味に口を開くと、明るい声が返ってきた。
「おお、結婚でもするのか?」
「するはずないでしょ。どこにそんな男がいるのよ」
「ま、おまえみたいなヤツと結婚したら、夫婦喧嘩が怖いからな。歯向かった旦那は背負投げで一本負け、なんてな」
連絡を取り合うと、一度はこんな会話になる。お互い結婚相手が見つかったら知らせ合う。それが約束になっていた。三十を越したあたりから、瀬谷の訊き方が優しくなった気がするが。
簡単にお互いの近況を伝え合ったあと、神楽は切り出した。
「四月十七日にそちらで起きたコンビニ強盗事件なんだけど」
そう言うと、飯島の声のトーンがわずかに変わった。
「富久町のやつか?」
町名までは把握していなかった。
「正当防衛の末、犯人が死んだ事件」
「ああ。やっぱり富久町のやつだよ。それが?」
「ちょっと聞きたいことがあって」
被害者だった津村さくらについて、情報があれば教えて欲しいと告げると、瀬谷はへっ?と声を上げ、それから、
「なんでだ?」
と、訝し気に訊ねてきた。
「それがね」
叔父の話をするつもりはなかったから、神楽は思いついた出まかせを言うしかなかった。
「知り合い。知り合いがあのコンビニでバイトをしてて、それでその」
しどろもどろになってしまった。
「その、何」
理由は思いつかなかったし、下手な言い訳を考えるのが面倒になってきた。
「ちょっとした経緯【いきさつ】があって、正当防衛の末に犯人を刺した津村さくらについて知りたいのよ」
「事件というより、津村さくらについてってこと?」
「そう、彼女について」
「仕事で?」
「ううん、違うの。個人的にね、ちょっと」
「ふむ」
頷きのような声が漏れた。迷惑だったかな。所轄の違う警察官に、事件について情報提供をするというのは、積極的に行われることじゃない。
「あ、いいの、いいのよ。何か知ってたらと思っただけだから」
「直接あの事件の担当だったわけじゃないからな」
「富久町は牛込署よね?」
「ああ。牛込署に個人的に話を聞けるやつはいないなあ」
「そっか」
もう、諦めようと思った。一応調べようとはしたのだ。新宿署にいる同期に連絡をしたが、何もわからなかった。そう話せば、叔父もわかってくれるだろう。警察の仕事として津村さくらを調べるのなら、決まった順路を通って資料を集められるだろうが、個人的に動くとき、刑事をしていても一般人と変わりはないのだ。
ごめん、ありがと。そう言って会話を終えようとしたとき、
「ああ、そういえば」
と、瀬谷が続けた。
「事件を起こした尾美義昭だけど、あいつを昔、逮捕した刑事がうちにいるよ」
「尾美には前科があったの?」
「前科なんてもんじゃないよ。あいつはどうしようもないヤツでさあ。刑務所を出たり入ったりで。今回は二ヶ月ちょっと前に出てきて、それでコンビニに押し入ったんじゃなかったかな」
「そして最後になったちゃったってわけ」
「そうだな。殺されちゃったんだもんな。前に尾美を窃盗で逮捕した林警部補が言ってたよ。今回で、ほんとにあいつも年貢の納め時になったって」
「年貢の納め時……」
古めかしい言い方に、瀬谷の年に似合わず古風な風貌が蘇った。中学高校と剣道一筋で、どんなときも背筋を伸ばしているような印象がある。
「林さんなら、津村さくらについても知ってるかもしれないな。尾美が死んじゃったのを、ずいぶん気にしてたから」
それから瀬谷は、林さんに話してみると言ってくれた。悪いからいいわよ。そう言おうとして神楽は言葉を飲み込んだ。
私刑。
そう言った叔父の声が蘇ったからだ。
瀬谷の言うように、尾美は今回の事件で終わってしまった。精算されてしまった。もし、今回の事件がなかったら、尾美はふたたび同じような事件を起こし、いずれはもっと酷い事件を起こしたかもしれない。実際、今回の事件で、津村さくらが尾美を刺さなければ、もしかすると、津村さくら以外の誰かが刺されていたかもしれない。
「ええっと――」
間を置いてから、瀬谷は明るい声を上げた。
「林警部補と会う段取りをつけるよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます