第15話
鶴見の方南町は、京急鶴見駅から優に十五分は歩いた場所にあった。
「六丁目はこのあたりなんだけどな」
川崎を小さくしたような駅前の喧騒を過ぎてみると、案外静かな住宅街になった。道の両側の住宅に、ぽつりぽつりと明かりが灯り始める。
「あった!」
思わず声を上げてしまうと、行き過ぎたスーツ姿の男性が、怪訝な目を寄越してきた。すみませんと、軽く頭を下げ、目的の建物を見上げる。
こじんまりしたアパートだった。部屋数は、六。木造ではなさそうだが、新しくはない。アパートの横に大きな銀杏の木があり、建物の半分が影になっている。駅からは遠いし、魅力的でもない。相場より安い家賃だろうと推測できる。
予想したとおりだと、神楽は思った。いままでの印象で、津村さくらは街の中に、目立たずひっそりと生きている気がする。どこにいっても、誰もが覚えていないような場所に暮らしている気がする。
建物の入り口にある、チラシがたまった郵便受けを見てみた。こういったアパートにありがちで、当然部屋番号しか記されていない。
ドアを叩いて探ってみるか。
神楽は一階のいちばん手前の部屋へ進んだ。足元に、どこからか飛んできたらしきビニール袋が舞う。
「すみません」
声を上げるのと同時に、ドアを叩く。
返事はなかった。
留守だろうか。そう思ったとき、ドア横の小さな窓と、なぜか隣の部屋の同じ小さな窓に明かりが点いた。
「……」
ドアが細く開けられて、住人が顔を見せた。背後から、ゲーム音楽が聞こえる。
「突然申し訳ありません」
神楽は神妙な顔つきで頭を下げた。経験上、こういうとき、笑顔満面というのはよくない。セールスか何かだと思われ、すぐにドアが閉められてしまう。
「何ですか?」
若い男性だった。おそらく、二十代前半。
「すみません、人を探してまして。このアパートに津村さくらさんという人が住んでいるはずなんですがご存じないですか」
一気に言った。相手には関係のないことだと、即座にわかってもらうためだ。
「ここに住んでる?」
「そうなんです、ご存じありませんか」
「知りません。僕、越してきたばかりなんで」
「二十代の女性なんです。見かけませんか」
しつこいかなと思ったが、食い下がった。
「わかりません」
パタンとドアが閉められてしまった。
仕方ない。
次。
この部屋の窓と同時に明かりが灯った隣に進む。
「すみません」
今度はすぐにドアが開いた。話し声が聞こえていたのかもしれない。
「あの――人を探していまして」
相手は、中年の男性だった。眠そうな目で、こちらを伺う。
「津村さくらさんという方を探してまして、ここにお住まいのはずなんですが」
「津村さくら?」
見た目よりははっきりした声だった。
「二十代の女性の方なんですが」
「さあなあ。ここにはそんな若い人、住んでないと思いますよ。あ、外国人なら若い人いるみたいだけど。でも、男性ね」
「そうですか」
「警察の人?」
雰囲気でわかるんだろうか。警察官だと言うわけにはいかない。
「いえ、違います。友人です」
「ふうん」
興味なさそうに頷き、それからけだるそうに続けた。
「大家に訊くってわけにもいかないね。大家が誰かなんて知らないし」
仕事から帰ったばかりなのかもしれない。申し訳ないと思う。
「ありがとうございました」
神楽は頭を下げた。想定内の展開だが、ともかく全部のドアを叩いてみるつもりだ。
「うちの右隣と、二階の真ん中は誰も住んでいないから」
情報をくれて、男性はドアを閉めた。
二階へ行くために外階段を上る。
カンカンと足音が響いた。
二階では、一人の住人と話すことができた。
空振り。普通に考えて、アパートの住人同士が近所付き合いをするはずもない。知っているほうがまれなんだと思う。
だが、収穫はあった。空き室以外の残りの一部屋が津村さくらの住む部屋なのだ。
津村さくらの部屋の前へ行き、そっと中をうかがってみる。
静かだった。留守のようだ。
後日、もう一度訪ねてみよう。
そう思ったとき、アパートの先にある交差点から、こちらへ歩いてくる女性の姿が目に止まった。
女性はゆっくりと通りを進んでくる。手にはハンドバックのほかに、膨れたビニール袋。仕事帰りに買い物をした女性といったところか。
あれは。
もしや。
瞬間的に体が動き、神楽はアパートの廊下を走り、階段を下りた。
あれは津村さくらだ。
一度だけ目にした憶えのある写真は、脳裏にこびりついている。特徴のない、ごく普通の女性だった。だが、何かが引っ掛かっていたのかもしれない。忘れられなかった。
アパートを出てみると、通りに件の女性の姿はなかった。
ここで見失うわけにはおかない。
神楽は走った。
交差点からアパートまでには、路地が一本ある。おそらくそちらへ曲がったはず。
当たり。
津村さくらとおぼしき女性の後ろ姿が見えた。どこへいくつもりなのか、ゆったり とした足取りだ。
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