第56話

「あのマンションは」

 佐々が続ける。


「オーナーがかなり高齢でしてね、あまり管理が行き届いていません。遺体が見つかった階は空き店舗と空き室で、使われていませんでした。そのせいで、遺体の発見が遅れたようです」

 遺体はビニール袋に包まれ、厳重に封がされていたが、すさまじい臭気は漏れる。 

 それでも誰も気づかなかったのは、訪れる者がいなかったからだろう。

 

 鹿野院長は絶句したまま、うなだれてしまった。自分の身内かもしれない男が、そんな死に方をしたと思うとやりきれないのだろう。

「身元確認のために、DNA鑑定をしなくてはなりません。従弟の方の髪の毛とか使っていた歯ブラシとかがもしあれば」

 放心した目を向けて、それでも鹿野院長は頷いた。



 鹿野院長の従弟と思われる人物の遺体は、自殺したのかもしれない。だとしても、ビニール袋に包まれていたということは、遺棄した人物がいるということだ。

 

 捜査本部が立ちあげられ、神楽も佐々とともに捜査にあたることになった。

 数日後、鹿野院長から連絡があった。

 堤剛一が置いていった帽子があるという。帽子には髪の毛が付着しているらしい。早速、神楽が受け取りに行くことになった。

 

 ふたたび訪れた大森の動物病院は、相変わらず盛況だった。忙しそうに立ち回るスタッフに声をかけ、神楽は院長に面会を許された。

「ちょっと古いものなんですが」

 院長はそう言って、透明なビニール袋に入った野球帽を差し出した。横浜ベイスターズとロゴが入った帽子だ。院長は古いといったが、形が崩れているわけでも変色があるわけでもない。

 裏返してみると、たしかに髪の毛が数本こびりついている。


「以前、故郷の家を売却するために整理したとき、剛一が手伝いにきましてね。そのとき、やるよと言われて。別に欲しくもなかったんですが、くれるというものを無碍むげに断るのもなんだかね。それで、捨てるにも忍びなくて」

 懐かしそうというよりは、ちょっと不快そうに院長は言った。

「ありがとうございます。助かります」

 帽子を受け取ってから、神楽は訊いた。

「故郷の家というのはどちらですか」

 特に意味があって尋ねたわけではない。変死体が堤剛一だとはっきりしたら、詳しい身辺調査をしなくてはならない。

 どこで生まれ、どこで育ったのか。仕事や交友関係。調べなくてはならないことは山のようにある。


「茨城の田舎です」

「茨城?」

 神楽は思わず顔を上げた。

「では、堤剛一さんも、茨城の出身ですか」

「いや、出身というわけじゃない。親の生家が茨城なんですよ。わたしも剛一も東京で生まれましたが、子どもの頃は学校が休みになると遊びに行っていました。じいさんばあさんが生きていた頃はね」

「そうですか」


 何かと、茨城が出てくる。

 津村さくらを調べ始めてから、茨城という地名を頻繁に耳にする。

 偶然だろうか。


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