第四十二話

 夕方近く、繁華街の駅前通りをフェアリーパラダイスへ向かって歩いていた時、差しかかった路地の角から、見覚えのある人が姿を現す。

「久しぶりね。お元気?」

 広夢さんが香水の匂いを漂わせつつ、口元を釣り上げて微笑んでいた。僕は表情を固くしたまま『……どうも』とだけ言った。

「そんなに警戒しなくたっていいじゃない。今日は偶然よ」

 相手はハスキーな声で気さくに言うのだが、疑わしい気持ちは拭えない。

「……僕を引き抜く気はなくても、店の人達にはそうするつもりですか?」

「自分どころか他人のことまで心配するなんて、あなたってホントにあの店が好きなのね」

「そっちだって人手不足かもしれませんけど、他の店から引き抜くのはやりすぎだと思います」

 なじってみたが、広夢さんは動揺する素振りすら見せない。

「人が足りないのは事実よ。けど、それ以外にも理由があるわ」

 そう言うと広夢さんは、両手を腰に当てた。豊満なバストと程よくくびれた腰つきが強調される。

「私、朝おんしてから十五年経ってるの。明日の朝にでも、男に戻る可能性があるのよ」

 淡々とした口調だったが、息を呑んだ僕は相手の顔を見詰めてしまう。

 かつて僕は朝おんした直後、大学病院で『TSは五割の確率で再男性化する可能性があり、期間としては十五年が平均』と説明を受けていた。広夢さんの言ってることが本当なら、今が男に戻る可能性が一番高いということになる。

「例えば明日の朝、あなたが男に戻ってしまったら、あの店で『男の娘』として働くつもり?」

「男の娘じゃなくても、ウェイターとして働きたいです」

「確かにあなたなら、そのまま『王子様』をやっていけそうだけど、私にはホステスを続ける自信はない……でも、私が働けなくなったら、店が迷惑する。だから、それに備えて自分の後任として働いてくれそうな人を、色々探しているの」

 TSに関する事実を元にした話をされると、完全に何も言い返せなくなかった。

 そんな僕に広夢さんは、労るような言葉をかけてくる。

「あなたの態度でわかるけど、あの店はあなたがTSであるとわかってて、それでも採用してくれたから感謝してるのでしょう? それは私だって同じ。しかも無職だった私を雇ってくれた、今の店には恩がある……そこだけは理解してほしいわ」

 僕だって店と言うより、店長の嶋村さんにはTSである自分をスカウトしてくれた恩義はあるし、ともみさんと絵舞さんにも、偏見なく接してくれた感謝もある。とはいえ、内側に迷惑かけたくないからと言って、外に迷惑をかけてもいいのかという疑問は残る。

 もし僕が広夢さんのような立場だったとして、他の店から男の娘を引き抜いてきたとしたら、嶋村さんだけでなくともみさんや絵舞さんはどう思うのだろうか。むしろ、三人とも喜んでくれないような気もする。

 やがて広夢さんが左手首の腕時計を確認した。シルバーな光沢を放つ、アナログの女性用腕時計だ。

「時間があるから行くわね。また会いましょう」

 無言の僕を置いたまま、広夢さんは去っていった。道路を行き交う自動車の走行音だけが、耳に入ってくる。

 立ち尽くしていると、いきなり背中から声がかけられる。

「徳田君!」

 振り返ると、ビジネスバッグを手に下げた嶋村さんが、こっちを睨みながら歩み寄ってきた。そのまま僕の腕を掴むと、強引に連れて行こうとする。

「そ、そんなに引っ張らないでください!」

 懇願してみたけど、それに構うことなく嶋村さんは歩き出す。初めて出会った時の、公園から店へと連れ込もうとしたのと同じくらいの勢いと強さがあった。


 店内に入るなり、やっと僕を開放した嶋村さんは、その場にバッグを置いてから、挑むような目線を送りつけてくる。

「あなた、あの人と何を話していたの!?」

「偶然会って、話しかけられたんです」

 乱れたカーディガンを直しつつ、事実だけを答えた。

 ともみさんと絵舞さんの姿は見えない。多分、更衣室で着替えやメイクをしているのだろう。

「あの人には注意しておくよう言ったのに、どうしてあんな親しげに話をしてたわけ?」

 嶋村さんの態度には、今までにない厳しさがあった。

「相手がそう接して来ただけで、こっちはそんなつもりありません」

「その割に、結構話し込んでたじゃない。何か隠してるんじゃない?」

 疑いをかけられたのは心外だったので、ムッとしてしまう。

「あの人には、『引き抜きには応じない』って言ってあります」

「やっぱり、あの人はそういうつもりで……!」

「それと、あの人は引き抜きと関係なく、僕と話がしたいだけだと言いました」

「そんなこと、信用できないわ」 

「少なくとも、この店に関しては引き抜きをしないと、僕は思います」

「どうしてそう思うわけ? なにか言い含められたとでも言うの?」

 僕の言い分も聞かず、執拗に問い詰められると流石に腹も立ってきたし、ブチまけたい気分にもなってくる。

「実はこの前、あの人と仕事帰りに会いました」

「なんですって!?」

 驚愕の表情で、嶋村さんがこちらを凝視していた。

「そこであの人は自分がTSだって打ち明けて、同じTSである僕と話したいと言ったんです」

「本当にその人はTSなの?」

「TS同士でしかわからないことを言ったので、そこは本当だと思います」

 ここまで訴えても、まだ嶋村さんは疑惑を口にする。

「いくら同じTSでも、その人が信用できるかどうかは別よ。そういう境遇を利用して、あなたを騙そうとしてるかもしれないじゃない」

「僕だって、完全に信用はしてないですし、TSのこと以外は話してません」

「相手はあなたにつけ込んで、この店の情報を探ろうとしてるかもしれない。きっとそうに違いないわっ!」

 そう断言した時、更衣室のドアが開いてともみさんと絵舞さんが姿を現す。

「落ち着いてください、店長」

「一方的に徳田さんを責めるのは、酷というものです」

 まだともみさんはウィッグを被ってもおらず、絵舞さんもメイクが仕上がってない。居ても立ってもいられずに乗り込んできた感じだ。

 僕との間に割って入った二人を、嶋村さんは恨めしげに見る。

「あなた達、聞いてたのね?」

「あんな大声、店の外まで聞こえますよ」

 ともみさんがたしなめると、絵舞さんが僕に寄り添う。

「徳田さんがここまではっきり主張するのですから、私も嘘は言ってないと思います」

「彼が『引き抜きには応じない』とまで言ったのに、それを信用してあげないと、相手の罠にはまるかもしれませんよ」

『罠』という言葉を口にしたともみさんに対し、不審げに嶋村さんが眉を寄せた。ともみさんが続ける。

「例えばの話ですけど、もし相手が本気で彼を引き抜くつもりなら、まずは店長との間に不信感を持たせて、彼が孤立してしまった時、甘い声をかけてくると思うんです」

「そういう策略だとでも?」

「たとえ話ですよ。彼は未成年だから、ゲイバーでは働けませんが、この店を辞めると言い出すかもしれませんよ。そんなことになったら、引き抜きと関係なく、店全体が困るじゃないですか」

 説得された嶋村さんの表情は、苦々しげなものがある。

 このタイミングで、僕のスマホにメールの着信音が鳴った。そこであることを思い出す。

「以前あの人と会った時、話をスマホに録音しておくようにと言われました。それを聞けば、僕の言うことが嘘じゃない証拠になります」

 ポケットからスマホを取り出すと、あの晩に広夢さんと話し合った内容を再生してみた。

 広夢さんから名刺を渡されて、母より心配の電話がかかってくるまでの会話を、三人がじっと聞き入った。再生が終わると、ともみさんと絵舞さんがそれぞれに意見を述べる。

「これを聞く限り、相手がTSだって言うのは、まんざら嘘じゃないような気もしますね」

「それに徳田さんも『スカウトはお断りします』と明言してますし、少なくともそこだけは信じてあげるべきです」

 すっかり肩を落とした嶋村さんが、僕に向かって深く頭を下げる。

「ごめんなさい、あたしが間違ってた……本当に申し訳ないことをしてしまったと、反省するわ」

「いえ……信じてくれるなら、それでいいです」

 自分よりもずっと年上の人から謝罪されて、大いに戸惑う気持ちがあった。

 足元のバッグを取り上げると、嶋村さんは事務室へと向かっていった。その背中からは、今までに見たこともないほどの落ち込みを、僕は感じ取ってしまう。


 一騒動あったものの、フェアリーパラダイスはいつもの時間に開店した。そして僕達も、いつもと同様に働いていく。

 だけど嶋村さんだけは、どこか精気が失せたような表情をしていて、開店前のことがまだ尾を引いているのがわかった。


 休憩時間になり、賄を受け取りに厨房へ入った時のことだ。

「なあ、徳田君。さっきの……店長の件だが」

 普段は無口なはずの、コックの上堂さんが、こもり気味な声で話しかけてきた。

「昔、この店で引き抜きがあった後、あの人は自分が店長としての資質に欠けてると思い込んで、しばらく情緒不安定になって落ち込んでたんだ」

「そうだったんですか……?」

 上堂さんが昔話をしてきたことと、嶋村さんにそのような過去があったことを知って、信じられない思いがする。

 サンドウィッチとコーヒーを乗せたトレーを渡しつつ、上堂さんはつぶやくように言う。

「あの人には、そういう脆いところがある。それでもあの人なりに努力してるんだから、許してやってくれ」

 嶋村さんより遥かに年上な上堂さんから、そこまで言われてしまうと、こう答えるしかない。

「もう、気にしてないですから」

「……そうか」

 うなずいてから上堂さんは僕から離れて、厨房の奥へと向かった。

 きっと嶋村さんは店長として、未成年である僕を気遣うあまり、感情をあらわにしてしまったのかもしれない……仕事をしている間に、僕はそう思うようになっていた。

 だとしたら、これ以上は何も言うべきではない。そう判断した僕は、トレーを持って厨房から出る。

 それにしても、上堂さんが嶋村さんのためにここまで打ち明けてくれたことは、強く印象に残った。


 閉店後の更衣室において、僕はともみさんと絵舞さんに、あらためて感謝の意を表した。

 二人は口を揃えて、『嶋村さんは少しナーバスになってただけだから、気にしないように』と言ってくれる。上堂さんと同様、二人も店長のことを思いやっているようだ。

「私が男の娘に興味があるように、あなたも同じTSの人と出会えて、興味をひかれてしまうのですよね?」

 絵舞さんは共感を示してくれた。

「そりゃありますけど……なんて言うか、イマイチ信用できなくて」

「お話を聞く限り、その人は苦労もなさったみたいですけど、どこか危険な香りがします。そういうところが、かえって心ひかれるのではありませんか?」

「怖いもの見たさかもしれません。僕の知らないことも、いっぱい知ってるでしょうから」

「私も、その人とお話してみたいですね。スカウトの話は抜きにして、ですよ」

 やはりというか、絵舞さんも広夢さんには興味津々らしい。

 ともみさんとは『罠』の話題になった。先程、もし広夢さんが僕を引き抜くつもりなら、嶋村さんとの間に不信感を抱かせて、孤立させたところで誘惑してくるという話をしてくれたので、どうしてそこまで見抜いたのか、気になっていたのだ。

「昔、先生から勧められた歴史の本の中で、スパイや忍者を使って、敵の王様と部下の信頼を引き裂いてから、自軍に引き抜いたり反逆を起こさせると言った謀略の手口が、色々書いてあったんだ。すごく面白くて、何度も読み返したものさ」

「歴史にも興味あったんですか?」

 そう聞き返すと、昼間会った広夢さんみたいに、ともみさんが口元を釣り上げた笑いを浮かべる。

「っていうか、謀略の方だね。何故なら、人を喜ばせることは人を騙すことにも通じるところがあるから」

 ともみさんのエンターテイメント精神と、罠や謀略とかに何の共通点があるのか、すぐにはわからなかった。

 曰く、罠や謀略をしかけて騙したい相手には、相手の喜びそうなことを吹き込んで信頼させるというのが基本だそうだ。もちろん、どういうことを喜ぶかは人によって違うので、その辺の事前調査は大事だ。

 そこで相手から一方的に金銭などを奪ってしまえば、それは詐欺という犯罪になってしまう。でも、自分はそういうことをしているわけではないと、ともみさんは自負する。

「この店においてボクは、客が払ってくれる料金の範囲内で、相手を騙しつつ喜ばせている。だからこれは詐欺じゃない。あくまでなんだよ」

「なんだか……屁理屈にも聞こえるんですけど」

「キミも『王子様』という嘘を、客に提供してるじゃないか。それだって、料金に含まれてると客も納得してるし、キミも不当に思ってるわけじゃないだろ?」

 そのように言われてしまうと、渋々といった感じで認めざるを得ない。

 不当といえば、僕はフェアリーパラダイスの店内だけでなく、学校においても『王子様』と呼ばれている。社交的女子や男子からは揶揄されるだけだが、取り巻きの女子達は応援してるつもりで、そう呼びかけてくる。

 当然ながら彼女達との間には、学校では金銭のやり取りとかはない。けれど、そういう呼び方を許していることと、それらしい振る舞いを求められているという時点で、なんというべきか僕の方からサービスを過剰に『持ち出し』しているような、そんな気分がするのだった。

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