第六十話

 出入り口のそばに置いてある、大型の傘立ての周りには、こぼれた水滴が散らばっていた。モップを使い、床の雫を拭き取っていく。

 天気予報では、昼からの雨も夜には止むと言っていた。そろそろ雨上がりしただろうと思っていた時、倉石君が来店する。

「お帰りなさいませ。雨は止みましたか?」

「少し前にね。念のために傘持ってきたけど」

 折りたたんだ携帯用の傘を手にしている倉石君を、席へと案内した。アイスコーヒーの注文を受けて、厨房へと伝える。

 夏コミケで▽▽のコスプレをすると決めた僕は、倉石君からはキャラに関するアドバイスをいろいろと受けていた。イメージを把握しようと、ゲーム内でのポーズやゲット時の名乗り等のセリフを覚えて、彼にチェックしてもらうのである。また▽▽は一途で努力家という性格設定なので、表情も真面目っぽくした方がそれらしいとも言われていた。

 出来上がったアイスコーヒーを運ぶと、僕は倉石君とイメージ作りに関する打ち合わせを行う。彼がスマホでゲーム画面を示しつつ、それを僕が覗き込む。

「このポーズとセリフは、ネットでも有名だから、真似した方がいいかも」

「わたくしもまとめサイトで目にしたことがありますから、ぜひやってみます」

 無意識に倉石君のそばに顔を寄せて画面を見つめていると、彼の鼻息が少しづつ荒くなっていくのが気になってしまった。わずかに離れてから横顔を見ると、頬が紅潮しているのもわかる。

 何をそんなに緊張してるんだろう……そう思いかけて、すぐ理由に気づく。


 倉石君……僕が顔や体を近づけてきたから、興奮してるんだ。


 今まで倉石君と話をする時は、店内でも仕事帰りのコンビニ前においても、正面から向かい合うだけで、ここまで接近したこともなかった。さらに僕の胸の膨らみとか、『女』の部分も感じ取って、すごく意識しているのかもしれない。

 あの『王子様ゲーム』で『やらかしてしまった』後、再び倉石君はこっちの目を見て話してくれるようになった。けれど、こんなに近づいてしまえば、どうしても胸が気になってしまうのだろう。そこに思い至ることがなかった僕も、うかつだと言える。

 そんなつもりなんてなかったのに、彼をおかしな気分にさせて申し訳ないという気持ちが生じてしまう。だが同時に、興奮している倉石君に当てられて、僕の胸もドキドキしていくのがわかる。何でこんな気持ちになってしまうのか、戸惑っていた僕に彼が目を向けてきた。

「あ、あの……」

 すっかり顔中を赤らめている倉石君は、モジモジとした様子を見せている。何か言わなきゃと唇を動かしかけた時、新島が店内に突入してくる。

「姉貴! 俺もスマホ買いました。これで◇◇ができます!」

「お帰りなさいませ、お坊ちゃま……って、あら?」

 出迎えようとした絵舞さんの脇をすり抜け、新島は一目散に駆け寄ってきた。倉石君との時間を邪魔しやがって……内心で舌打ちしつつ、奴へと向き直る。

「お坊ちゃま。嬉しいのはわかりますが、もう少し落ち着いてくださいませ」

「姉貴にこの喜びを早く伝えたくて、スマホショップから直行してきたんです!」

 新島は僕が▽▽のコスプレをすると知って、キャラが登場するゲームにも興味を示していた。だがこいつはスマホを持っていなかったので、話題に入れなくて悔しい思いをしていたらしい。

 その新島が笑顔で見せびらかしてきたのは、どうやら安い機種のようだ。◇◇のアプリは、高スペックを要求するものではないので、プレイするだけなら十分だろう。

「買ったばかりだと、まだダウンロードしてないね。やり方はわかってるかい?」

 ゲームの話題となれば、ともみさんが寄ってくる。新島は椅子に腰掛けると、説明を受けつつスマホを操作していく。

 一旦はその場から離れて、僕は厨房に入った。喉の乾きを覚えていたので、グラスに水を注いて一気に飲み干す。冷たい心地よさが喉を流れた後、息を吐き出す。

 それにしても……僕が倉石君に対して、胸がドキドキしてしまうなんて、そんなことになるとは思わなかった。

 別に倉石君の顔や姿形そのものに、ときめいていたわけじゃない。本人に対して言えることじゃないが、彼はブサイクではないものの、決してイケメンでもなかった。全体的に、あまり特徴のない顔立ちをしている。

 体つきだって、僕と同じくらいの背丈だが、デブでもないしひ弱なガリでもなく、少しやせ気味程度だ。出会った頃と比べて、最近ではかなり垢抜けてきたけれど、まだ表情とか雰囲気に冴えないところもある。

 僕が興奮してしまったのは、倉石君が僕の『女』の部分を意識しすぎているのがわかったからだ。以前に彼は、僕を『夜のオカズにはしない』と明言したが、新島にキスのふりをした時の狼狽ぶりから、それも大分怪しくなってきた。けど、彼の言い分は尊重したい。

 ともあれ、僕の体が彼をそうさせてしまったことに、申し訳無さはある。だが、そのように受け止められていることに対して、高揚感を覚えたのも事実だ。もしかすると僕は、女である自分に喜びとか優越感を抱いているということだろうか。

 倉石君とは男女関係なく、親友でいたいはずなのに……これで何度目かはわからないけど、またしても僕は自分の中に矛盾を発見してしまう。


 店内に戻ると、ともみさんや常連の二人組にも見守られつつ、新島がスマホを操作していた。

「姉貴、俺も▽▽ゲットしました!」

 喜び勇んだ新島が椅子から立ち上がって、僕の目の前にスマホの画面を見せつけてきた。ここまで接近されても、こいつに対してはまったく興奮することはない。むしろ、妙に人懐っこい大型犬に全身でじゃれつかれているような気分さえしてくる。

「おめでとうございます。これからはレベルアップに励んでください」

「姉貴がコスプレするキャラだから、大事に育てます!」

「ちなみにわたくしがコスプレするのは、最終段階レベルの姿です。育成が面倒だからといって、途中で投げ出したりしないでくださいませ」

「毎日プレイして経験値貯めます!」

 僕の嫌味にも気づかず、新島は馬鹿正直にうなずいていた。本当に犬並みの知能しか持たないのかと、逆に不安になってしまう。


 気を取り直して、倉石君とキャラの打ち合わせを再開する。

 さっきは無意識に近寄りすぎて、倉石君を刺激させてしまったから、今度はなるべく距離を置くようにした。かといってあまり離れすぎると、こっちが警戒しているように思われてしまいそうだし、適度な間合いがわからなくてモヤモヤとしてしまう。

 倉石君の方も、興奮しているのを悟られまいとしているのか、平然とした表情を装っていた。それでもぎこちなさは残っている。

「こ、ここのポーズも取り入れたら、いいんじゃないかな……」

「ええ……そ、そうします」

 僕までどもり気味になってしまった。

 ふと妙な視線を感じて顔を上げると、レジの方から嶋村さんが、僕達のやり取りを暖かく見守っていた。いたたまれなくて、顔から火が出そうなほどだ。

「二人とも、キャラ作りは進んでる?」

 新島の相手を絵舞さんに任せて、ともみさんが僕達の前に来た。すぐに倉石君から離れて、姿勢を正す。

「はい、とても参考になりました」

「そりゃよかった。彼のイメージに沿ったコスプレができるなら、きっとうまくいくさ。倉石君もそう思うだろ?」

 ともみさんに問われて、倉石君はうつむき気味に『はい』とだけ答えた。

「ところで、ともみさんが夏コミケでコスプレするのは、格闘ゲームの男の娘キャラですよね。以前にも同じキャラを演じていたと言ってましたが、もう一度やるのですか?」

 僕からの質問に、ともみさんは笑顔で答える。

「以前やったのは初代の方で、今度やるのは新デザインの二代目さ。ボクが初めてコミケでコスプレしたキャラだから、思い入れはあるんだ」

「ともみさんにとっては、十八番おはこみたいなキャラですね」

「そうだね。ちなみに、初めてのコスプレでコスを作ってくれたのが、あの『ヴァンタン』さんなんだ」

 今、名前の出た『ヴァンタン』さんというのは、今度の夏コミケを最後に引退することになった、コスプレ用の衣装製作サークルに所属している人だ。僕がコスプレする▽▽のコスが、その人にとって最後の作品ということになる。

「今回のともみさんのコスも、その人に作ってもらえたらよかったんでしょうけど、忙しくて無理だったんですよね?」

「同じサークルの別の人に頼んであるから、質は変わらないよ。初めてヴァンタンさんに作ってもらったコスは、すごく出来も良くてさ。しかも動きやすくて、ポーズもうまく表現できたし……いつかもう一度、作ってもらえたらいいなって思ってる」

 その言葉からは、ヴァンタンさんの引退を惜しむ気持ちが感じられた。

 ここからは、初めてコミケでのコスプレに臨む僕に対し、ともみさんから注意点などをいろいろと説明される。

 僕がコスプレするのは、▽▽の最終段階レベル時の姿だ。上半身の露出は少ないが、下半身は丈の短いスカートになっている。だから、かがんだ時に下着などが見えないよう、タイツやストッキングをはくなどの自衛策を取るべきだと言う。

「わかりました。ともみさんのキャラは、最初からスカートの下に黒スパッツをはいてるから、大丈夫ですね」

「まあね。それでもの形がわからないよう、工夫はするけど」

 どんな工夫かは教えてくれなかったけど、知ったところで女の体である僕には役立ちそうもないので、あえて聞かないでおく。

 他に、コスプレする側が許可を出してから相手に撮影させる。こちらから故意に過度な露出をしない。相手からポーズなどを強要されたり、極度なローアングルや体の一部をアップで撮ろうとするなど、自分が迷惑になる場合は撮影を断ってもいい。といった撮影される際のルールも教わる。

 最後に、一番気になっていたことをともみさんに質問する。

「TSのわたくしは、どちらの更衣室で着替えればよろしいのでしょうか?」

 体は女だから男性用では奇異の目で見られそうだし、女性用だと僕の存在が周りに迷惑をかけてしまうかもしれない。そういった問題があるから、僕は自宅と学校と店以外の、公共施設のトイレなどを利用することは避けていた。だがコミケにおいてはそういうわけにもいかない。

 ともみさんによると、十年ほど前からコミケにおいてTSのコスプレイヤーが現れだしたので、最近は専用の更衣室を設置しているという。もちろん、事前に申告しておかないと利用はできないらしい。

「わたくしみたいな者が、すでに存在していたとは驚きです」

「男の娘のボクが言うのもなんだけど、コスプレしてたら向こうから打ち明けない限り全然わからないし、後から噂でTSだとわかったこともあるけどね」

 苦笑してからともみさんは、倉石君に視線を移す。

「ところでキミは、去年の夏コミケには一般参加したんだよね?」

「はい、とにかく暑くて大変でした」

「その大変暑い夏コミケに、今回は王子様がコスプレイヤーとして初参加する。そこでキミには慣れない彼のために、会場内でのサポートを担当してほしいんだ」

「サポートですか? ぜひやらせてください」

「キミならそう言うと思った」

 素早く食いついてきた倉石君に、ともみさんは満足げだ。

 今回の夏コミケでは、ともみさんが所属する遊井名田先生のサークルに、僕と倉石君を加えた四人でサークル参加を申し込むことにしたと言う。

「詳しい話は、いずれ先生の仕事場で説明しよう。ともかくキミの責任は重大だよ。彼のためにも頑張ってくれたまえ」

 半ば冗談めかして激励してきたともみさんに、倉石君は真剣な顔で頷いていた。そんな二人の会話を、後方から嶋村さんと絵舞さんが微笑ましく眺めている。

「あらあら、頼もしいわ~」

「これなら王子様も安心ですね」

 そんなつぶやきが聞こえてきて、耳まで熱くなるのを感じてしまう。

 ここまで事態を進められてしまうと、ともみさんは夏コミケにおいて、僕と倉石君をデートさせようと企んでいるのか……と勘ぐってしまいたくなった。そもそも僕に▽▽のコスプレ話を持ちかけてきた時点で、そこまで考えていたのかもしれない。僕だって彼がそばにいてくれるのは心強くはあるけれど、嶋村さんに絵舞さんを含めて周りからお膳立てされると、少々ありがた迷惑に感じられなくもないのだ。

「姉貴。俺はこの▽▽を、夏コミケまでに最終段階までレベルアップさせてみせます!」

 またも新島が乱入してきた。さっきゲットしたばかりなのに、今から間に合うとは思えない。

「お坊ちゃま。そこまで意気込まず、自分のペースで進めてくださいませ」

「でもやっぱり姉貴のコスと同じ姿が見たいですから、やり遂げてみせます!」

 その過剰なまでの意気込みがウザくてたまらない。当日はこいつも来場すると言ってたから、暑さ以外にウザさ対策もしなくてはならないのかと考えると、気が滅入ってしまいそうだ。

 ふと倉石君の方を見ると、彼は新島を恨めしそうな目で見上げていた。対する新島はそんな目線に構うことなく、僕の気を引こうとしている。

 まさか先生が冗談で言った、『TSの僕を間に倉石君と新島がにらみ合う、男同士の三角関係』が、小説どころか現実に……しかも、それが夏コミケ当日に起きてしまうとでもいうのか? それこそ冗談ではすまない話だ!

 内心で必死に否定しつつ、それでも不快な予感に苛まれてしまう僕であった。

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