第五章 王子様の夏

第一節 梅雨空の向こう側へ

第五十九話

 朝から降りしきる雨は、夕方を過ぎても止む気配がなかった。梅雨も後半になれば、こんな日ばかりが続いて憂鬱だ。

 店の奥にあるでは、遊井名田先生がノートPCを持ち込んで、原稿の入力に没頭していた。雨天でもあるのに、わざわざフェアリーパラダイスに乗り込んで執筆するからには、先生は煮詰まった状況にあるらしい。

「……先生が原稿に取り組んでいるのを初めて見たけど、あれほど真剣だったなんて」

 離れた席の社交的女子が、関心のつぶやきをもらす。先生の来店とタイミングが合って最初は嬉しそうだったが、執筆の邪魔をするわけにもいかず、歯がゆい表情へと変わっていく。

 静まり返った店内に、先生の打鍵音が小さく響いていた。社交的女子のそばに控えていた僕は、そっと耳打ちする。

「今夜の先生は多忙につき、お話することは諦めた方がよろしいかと」

「しょうがない……夏コミケの新作を書いてるんだもんね」

 社交的女子はストローでカフェラテを一口すすった。

 先生が取り組んでいるのは、夏コミケで発行予定の同人誌に収録される小説だ。内容としては、ティアで販売した『悪役令嬢もの』の続編だと、ともみさんから聞いている。

 ティアにおいて、先生の手伝いをした謝礼としてもらった同人誌は、小説をほとんど読んだことがなかった僕でも、ぐいと引き込まれてしまうくらいに面白い内容だった。例の『壁ドン』のシーンは、迫力ある描写がされてて、改めて先生の文章力に感動したものだ。それ故に、僕も夏コミケの新刊には期待を寄せてしまう。

 やがて先生は背もたれに寄りかかると、大きく背伸びをした。続いて大きく息を吐きだしてから、ノートPCを閉じる。そこへともみさんが、二杯目のシナモンミルクティーを運んでいく。

 ホッとした顔で紅茶をすすっていた先生が、離れた席から見守っている社交的女子の視線にやっと気づいた。軽く手を上げただけで、社交的女子が色めき立つ。

 他の客が帰った後の食器を片付けていると、すれ違ったともみさんがウインクしてくる。それは『今なら先生に話しかけてもいい』という合図だ。社交的女子の元へ向かい、その旨を告げると、諦めていたはずの彼女の顔が歓喜で湧き上がる。

「お疲れさまです、先生! 原稿の方は大分進んだんでしょうか?」

 先生の前に連れていくと、この女は例のごとく、何枚も猫被りしやがった。普段の嫌味ったらしい言動との落差が天と地ほどにありすぎて、本当に同一人物なのかと疑ってしまう。

 先生はさすがに疲労の色はあったが、熱狂的ファンである彼女に対しては笑顔を見せる。

「やっと結末も見えてきたし、この調子なら締切に間に合うと思う」

「期待してます。でも、無理はなさらないでくださいね」

「ありがとう。そう言ってくれると嬉しいね」

「いえ、ファンとして当然の気持ちです!」

 この女が先生を心底から尊敬しているのはわかる。もちろん、このフェアリーパラダイスにとっても先生は大事なお客様だ。けど先生だって一人の人間なのだから、神様みたいに持ち上げることもないだろうに……とは思う。


 結果的に、今夜も先生と話ができたことで、社交的女子は感極まっていた。その友人AとBも、ともみさんからのゲーム攻略情報や絵舞さんとのオシャレ談義にすっかり満足していた。こうやって恩を売っておけば、いずれは何かの役に立つだろう……そんな思いをおくびにも出さず、僕は三人をお見送りする。

 その後、僕はともみさんと一緒に、先生のお相手をした。夏コミケでは、ともみさんもサークルスペースで売り子のアシスタントを務める事になっているから、今回は僕の出番はなさそうだ。そう思っていたら、ともみさんが突拍子もないことを言い出す。

「今回は、キミにもコスプレをしてもらいたいんだ」

「まだ諦めていなかったんですか。わたくしではなく新島にやらせたらいいのでは?」

「アイツじゃまだ無理だ。真の『男の娘』に目覚めてないし、キミの方が向いていると思う」

 今夜は姿を見せていないが、あれ以来新島は頻繁に店へと訪れるようになっていた。ここへ来ればともみさんと絵舞さんから、『男の娘にならないか』と誘惑されるのがわかってるくせに、それでもあいつは僕に会いたい一心で通ってくるのだ。まったく懲りない奴である。

 それはともかく、何でいまさらそんな話を持ちかけてくるのかと訝しむ僕に、ともみさんが理由を打ち明ける。

「ボクも世話になったことがある、コスプレ用の衣装製作サークルに所属している人がいるんだ。実はその人が夏コミケを最後に引退することになって、記念に作ったコスを着てくれる人を探してたんだ」

「それをわたくしにコスプレしてほしいというのですか?」

「そう。その人が作ったのはソシャゲの◇◇に出てくる、▽▽なんだ」

「ちょっと待って下さい。それって倉石君の推しキャラじゃないですか」

 倉石君がどれだけそのキャラを気に入っているのかを、僕はよく知っている。ゲームにおいては、入手順に▽▽をそれぞれのレベルアップ前の段階に留めつつ複数所持して、イベントでも使いこなしていると打ち明けてくれた。さらにキャラグッズも集めており、初めて彼と僕が出会ったのも、▽▽のアクスタがきっかけだった。

 ともみさんはニヤニヤとした目線を僕に投げかける。

「彼のお気に入りなら、キミだってその気になるだろう?」

「それなら、なおさらできないです」

「どうしてさ?」

「彼は心底、▽▽を推しているんです。そのイメージを壊す真似はできません」

 僕自身はソシャゲの◇◇は好きだが、▽▽を含めてキャラそのものには思い入れはない。そんな僕が、倉石君の推しキャラである▽▽をコスプレするなんて、冒涜以外の何物でもないはずだ。

「キミは義理堅いな。でも、それは考えすぎだよ」

 ともみさんは粘り強く説得を仕掛けてくる。

「彼だって、▽▽の同人誌は買ってるだろう? つまり二次創作は容認してるんだから、コスプレだって気にはしないと思うね」

「コスプレも同人誌と同じ、二次創作だって言うんですか?」

「その通り。マンガ描いて同人誌を出すのも、イラストやSSをネットに上げるのも、フィギュアやグッズを作るのだって同じだ。コスプレは、そのキャラのコスやポーズを自分の体を使って二次創作してるんだから」

 確かにマンガの作者や、アニメやゲームのオフィシャルが出す公式作品に対して、無関係な他人が作ったものはすべて二次創作になるわけだから、コスプレだって同じことになる。

 そもそも二次創作って、作品やキャラが好きだから、ファン活動の一つとしてやることだと思ってる。例え倉石君が認めても、僕自身が▽▽を好きでもないのに、コスプレするのはおかしい気がした ともみさんだって、嫌いなキャラにはなりきることができないはずだ。

 そのことを尋ねてみたら、ともみさんが表情を改めてから、問い直してくる。

「キミも『王子様』を始めた時は、それを演じることは好きじゃなかっただろう? 最初は仕事だったとしても、そのうちに自覚が芽生えて、今では立派に努めている。それだけ演技力があるんだから、キミも▽▽のコスプレができるはずだ」

「仕事とコスプレは、やっぱり違うと思いますが」

 持ち上げてくれるのは、まあ悪い気はしなかった。けど、倉石君の気持ちを思うと、安易に引き受けることはできない。

 悩んでいると、ドアの開く音がした。振り返ると、その倉石君が入ってくるのが見えた。雨降りだからコンビニ前ではなく、店内で僕と話がしたかったのだろう

 チャンス到来とばかりに、ともみさんが駆け寄る。

「お帰りなさいませ。キミが来るのを待ってたんだよ」

「え、なんですか?」

 ともみさんに背中を押されつつ、倉石君は先生の隣のテーブルに着席した。さらにともみさんから今までの経緯を聞かされた彼は、戸惑いがちな表情を僕に向ける。

「マジで君は▽▽のコスプレをするのかい?」

「なんと言いますか……倉石様のイメージを壊してしまいそうなのが、はばかられるのです」

「そんなことはないさ。するのは君の自由だし、反対はしないけど……」

 語尾を濁してはいるが、どこか期待しているような部分があるように思えるのは、僕の気のせいだろうか。

 ともみさんはねっとりとした目線で、倉石君の顔を覗き込む。

「▽▽のコスプレを見るなら、気心の知れた相手が演じてくれた方が、キミも嬉しいだろう?」

「いや、あの‥‥その」

「だからキミがこう言えばいいのさ……『君の▽▽が見たい』ってね。それで王子様もその気になると思うね」

「う、う~ん……」

 困ってしまった倉石君を見かねて、ともみさんとの間に割って入る。

「倉石様にプレッシャーをかけるのは、やめていただけませんか」

「フフフ……あともう一押しだと思うんだけどな~」

 一旦は厨房に引き下がるも、ともみさんが諦めていないのは明白だ。残された僕と倉石君の間には、気まずい空気が漂う。

 本心では倉石君も、僕のコスプレが見たいんだろうか。少し恥ずかしい気持ちはあるけれど、彼が喜んでくれるなら……心が揺れ動いていた時、今まで黙っていた先生が口を開く。

「その衣装製作サークルの人は、私も昔から知ってる女性なんだ。ともみちゃん以外にもいろんなコスプレイヤーの衣装を手掛けてて、すごく評判いいんだよね」

「そんな人が、どうして引退するのでしょうか?」

 僕の質問に、先生は少し間を置いてから答える。

「家庭の事情だって聞いた。故郷の親が病気になって、介護に専念したいそうだよ」

 そういう理由なら引退もやむなしとは思うけど、評判がいいのであれば仕事を続けたかったはずだし、その人にとっては無念な状況だともわかる。

「彼女の最後の仕事に、花を持たせてあげたい……と、私も思ってるけど、君がその気にならないのであれば、それも仕方がないね」

 残っていたシナモンミルクティーを先生は飲み干した。絵舞さんがカップを片付けにやってくる。

「先ほどから話は伺っておりました。差し出がましいでしょうが、一言よろしいでしょうか」

 僕と倉石君を交互に眺めた後で、絵舞さんはにこやかに話し出す。

「王子様は、倉石様の持つキャラへのイメージを損ねることを危惧しています。ならいっそ、倉石様が王子様のコスプレに対して、助言なりアドバイスをして差し上げたらいかがですか?」

「お、俺がですか?」

 自分を指差した倉石君に、絵舞さんは頷いた。

「ええ。倉石様が直接イメージを伝えたなら、王子様もそれに沿ってコスプレができることでしょう。つまり、二人で一緒にキャラを作り上げていくのであれば、王子様も受け入れられるのではありませんか?」

 絵舞さんが僕の顔をうかがった。こんな搦め手から僕と倉石君を籠絡しようとするなんて、今や絵舞さんはともみさん以上の策士になりつつあるようだ。倉石君の表情も、その気になりつつあるのがわかる。

 ここまで来ると、退路は塞がれたも同然だ。僕は倉石君の顔を正面から見つめ、自分の胸に手を当てる。

「わたくしが▽▽のコスプレを引き受けたなら、倉石様はご協力していただけますか?」

「俺で良ければ……いや、君の力になれるなら、すごく嬉しいよ」

「……わかりました。不肖ながら、務めさせていただきます」

 僕の承諾に、絵舞さんは優雅かつ『してやったり』といった笑顔を浮かべた。先生も安堵したように微笑んでいる。

「引き受けてくれてありがとう。きっと彼女も喜ぶはずだし、私からもお礼を言うよ」

 話を聞きつけて、ともみさんも駆けつけた。僕の手を取って礼を述べてから、倉石君にも同じ様に謝意を表す。

「最初からキミに、こういう形で協力を求めていれば良かったんだね。ボクの詰めが甘かったな」

「俺はただ、手伝いたいだけですから」

 はにかんではいるものの、倉石君は嬉しさが隠しきれないでいた。

「王子様がコスプレだなんて、夏コミケに行く楽しみがまた一つ増えたぜ」

「夏コミケは暑さで大変だから、体調には気をつけてね。オレ達も水分補給の差し入れするよ」

 常連の二人組であるよっしーさんとオカチャンさんも、期待を寄せつついろいろと気づかってくれた。

 オーダーストップ一分前になって、来なくてもいいのに新島が入ってきた。雨の中を走ってきたのか、ワイシャツの両肩が濡れている。

「姉貴、遅くなってすいません!」

「いい加減、姉貴はやめてくださいませ」

 事務的な僕の対応にもめげることなく、新島は席に着くとチョコレートパフェを注文した。ギリギリのところで入ってくるとは、運のいい奴だ。

 新島にパフェを運んでいったともみさんが、僕が夏コミケでコスプレをするという話をした。わざわざそんなことまで言わなくてもいいのに……と思ったが、どうやらともみさんは僕の姿を見せることで、新島が男の娘になるのを受け入れるきっかけにしたいようだ。新島の方は無邪気に目を輝かせている。

「姉貴がコスプレするなら、絶対見に行きます!」

「必ず来てくれよ。王子様の晴れ舞台なんだから」

「はい! ところで……コミケって何なんですか?」

 店にいた全員……僕と倉石君、ともみさんと絵舞さん、常連の二人組、さらには先生まで、大なり小なりずっこける。

 そこから閉店に至るまで、新島はともみさんからコミケについてレクチャーを受ける羽目になってしまった。

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