第七十四話

 何もなかった日曜の夜だというのに、何故かいつまでも眠りにつくことができないでいた。なるべく頭の中を空にしようとするが、それでもどこかが冴えている。

 消灯したままベッドに横たわっていたら、不意に榊七海の顔を思い出す。先日、駅前で僕にウインクしてくれた時、一瞬だけ陽に照らされた、あの笑顔だ。

 僕と榊は、それぞれ学校において『王子様』と呼ばれている。もちろん、色んな意味で僕達は違いすぎるわけだが、それでも彼女と出会って以来、僕は自分と彼女を比較してしまう。

 今まで僕は、『王子様である自分』のことだけを考えていた。だが榊の話を聞いて、『王子様と周囲との関係』……特に取り巻きとの間に発生する問題こそが悩みの根源ではないかと思い始めている。

 僕が辟易しているのと同様、榊も取り巻き同士の派閥争いに悩まされている。また、口にはしなかったが、取り巻きは『自分達だけを特別扱いして欲しい』という本音から、榊に様々な役割を求めているに違いない。

 夏コミケにおいて僕が倉石君と一緒に社交的女子を助けたことで、親衛隊と突撃隊は揃って不満を訴えてきた。彼女達にしてみれば、それは自分達の抱く『王子様』のイメージを損ねる行動に思えたのだろう。もしかすると榊も、彼女が『王子様』らしくないことをしたならば、取り巻きが『お気持ち表明』という名の我がままを押し付けてくるのかもしれなかった。

 そう考えると取り巻きというのは王子様にとって、理不尽かつ矛盾に満ちた存在だと思える。他人を勝手に持ち上げておいて、少しでもイメージに外れたら、すぐに不満を表す。そんな役割を押し付けられた僕や榊は、いい面の皮だ。

 毛布の中で寝返りを打って、体の向きを変える。

 だから僕は、そんな決めつけに抵抗したくて、王子様らしく振る舞いつつ取り巻きをたしなめたりした。ということは、僕は無意識のうちに『王子様であることを武器にしていた』ことになる。そんな僕を社交的女子は『許せない』と言った。あの女は取り巻きではないが、からかいの対象として僕を『王子様』と呼んでいた。格下に見ていた僕から助けられたことが悔しくて、あんなセリフを吐いたのだろう。取り巻きとは違う意味で、あの女も僕に勝手なイメージを押し付けていたわけだ。

 負けるもんか……まぶたを閉じたまま、心につぶやく。

 取り巻きや社交的女子からなんと言われようと、王子様であることを武器にしてでも、自分のことは自分で守るしかない。そうしなければ僕は彼女達の我がままに押しつぶされてしまう。

 だが榊はどうだろう。陸上をやってるくらいだからメンタルは強い方だと思うが、店で話をした時の印象からは、そんな感じは受けなかった。むしろ、美味しそうにスイーツを食べていた時の喜びにあふれた表情や、男の娘のことを全く知らなかったという意外な疎さもあって、とても女の子らしいというか『箱入りのお嬢様』というイメージがある。

 そんな榊が、取り巻きから理想を押し付けられて、対抗できているんだろうか……と思ったが、それは余計なお世話というものだろう。僕と彼女は別々の学校に通っているわけだし、彼女には彼女のやり方があるはずだ。

 僕としては、かつて社交的女子から榊のことを教えられた直後に、内心で祈った言葉を繰り返すだけだ。『せめて榊七海が矛盾に押しつぶされて、自分を見失うことがないように』と。

 ふとスマホの時計を確認すると、もう二時を過ぎていた。これ以上起きていると、明日の朝は寝不足で起き上がるのに苦労しそうだ。

 仰向けになってから、毛布を被り直した。長い呼吸を繰り返していると、ようやく眠気が訪れてくる。


 翌朝はなんとか定刻通りに起きたが、案の定というか睡眠が足りなかったせいで、昼間はぼうっとしてばかりいた。

 放課後、フェアリーパラダイスに向かう途中のコンビニで、エナジードリンクを買い求める。それを一気飲みすると、カフェインが徐々に効いて、店に着いた頃には眠気が消えていた。これで今夜の仕事も頑張れそうだ。

 月曜日の夜ということで、客の数は比較的少なかったが、それでも常連の二人組は必ず来るし、さらに倉石君も一緒に入ってきた。

「本屋にいたら二人と会って、そのまま誘われたんだ」

 そこで買った◇◇のアンソロジーコミックを倉石君が見せてくれた。その本には夏コミケで▽▽の同人誌を発行した作者の漫画も掲載されてて、読むのが楽しみだという。

 倉石君は二人組と同じテーブルに着くと、◇◇の秋イベントの攻略について情報交換を始めた。ともみさんと僕もその輪に入り、話が弾んでいく。

 しばらく経つと、ドアが開いた。入ってきたのは榊七海だ。今夜は私服ではなく、美幸ヶ丘の制服姿である。

 倉石君達から離れた僕が、応対に回った。アイスミルクティーとパンケーキのセットを注文した彼女が、精悍な顔立ちの中に憂いを帯びた表情をしていたのが、少し気になる。

 スイーツが届くまでの間、榊と話をする。

「また当店にお帰りいただき、誠にありがとうございます」

「うん……ここの雰囲気が気に入ったから」

「そう言っていただけると光栄です」

「あなたとお話するのも楽しいし……」

 榊は声にも張りがない。別人とまでは言わないけど、前回と比べても元気の無さが伺えて、ますます妙に思えてくる。

 出来上がったケーキセットを運んでいったら、やはり榊も嬉しそうにはなった。『いただきます』と言ってからパンケーキを口にすると、時間をかけて甘さを味わっている。

 他の客からの注文が入り、一旦席を外した。そこから店と厨房を何度か行き来したが、その間に榊はあまりケーキに手を付けず、考え込むような表情をしていた。

 手が空いてから榊の席へ戻った僕は、なるべくさり気なく尋ねてみる。

「あまり食が進んでいないようですが、いかがなさいました?」

「美味しいとは思ってるけど……」

「それでも元気をお出しになられないのは、何かありましたか?」

 うつむいた榊は、間を置いてから息を吐き出す。

「……知り合ったばかりのあなたに、こんな話をするのはどうかとは思うけど、聞いてくれる?」

「わたくしで良ければ」

 ぽつりぽつりと榊が打ち明けたのは、美幸ヶ丘において取り巻きとの間で起きたトラブルの話だった。

 ある時、取り巻きの間で派閥争いが発生した。別の取り巻きから『ご注進』された榊は、嫌々ながらも調停を引き受けざるを得なくなった。それぞれの派閥から話を聞いて、否があると判断した方に向けて彼女がたしなめると、その取り巻きは反省するどころか、感情的になって反発してきたという。

 曰く、『七海様はどんな時でも私達の味方だと思っていたのに』とか、『そんな言い方するなんて榊さんらしくない』とか、挙げ句に『本当に王子様だと思ってたのに、見損なっちゃいます』とまで批難されたという。

「こっちだって好きでしたことじゃないけど、そんな『お気持ち表明』されて、すごく傷ついた……ってわけ」

 榊は苛立たしげにストローでアイスミルクティーをかき回した。

 昨夜、眠れない中で、榊も取り巻きから『お気持ち表明』を押し付けられているのかもしれないと考えていたが、それは当たっていたわけだ。

 夏休みの最終日、この店に訪れた僕の取り巻き達が、僕をなじってきた時の光景が嫌でも思い出されてしまう。あの時は倉石君が間に入ってくれて、最後は嶋村さんと絵舞さんのおかげで丸く収まった。

 だが、榊にはそんな擁護に回ってくれる人は誰もいなかったのだろう。まさに修羅場だったはずだ。

「大変な目に遭われていたのですね」

「以前から、こういうことは何度かあったけど、今回は特にひどくて……王子様だなんて、本当の私じゃないのに」

 榊が漏らしたセリフの中に、聞き覚えのある言葉が出てきた。先日、コンビニ前で倉石君に愚痴ったのと同じものだ。


『本当の僕じゃない』


 取り巻きから『お気持ち表明』されたこと。『王子様』である自分を『本当ではない』と否定したこと。ここまで僕と榊が、王子様であることの悩みでシンクロしてしまうとは……だがここで、安易に彼女へ同情するのは、何か違う気がしている。

 僕も榊も『王子様』である自分を『本当ではない』と否定したが、期間の差はあっても周囲からそう呼ばれて、それらしく振る舞ってきたのは事実だ。それを認められないのは、やっぱりおかしいのではないか……そこまで思い至った時、記憶の底からこんな言葉が浮上してくる。


『現状を認められない君は、ありもしない理想の自分を勝手に作り出し、その幻想と現実の自分との間にある落差に葛藤して、それをごまかすためにますます自分に対して嘘をつくようになる。そんなことを続けていけば、いずれどこかで破綻が出てくるし、君は自分が何者なのかと深く悩んだ挙げ句、精神が非常に混乱して心を病むことだってありえる』


 朝おんした直後、大学病院のカウンセラーから言われた説明だ。フランクな態度と、よく通った穏やかな声まで思い出される。

 あの人が言ったのは、TSにおける『男か女か』の問題についてのはずだ。それが今になって僕と榊の、それぞれの『王子様』の問題に重なってくるとは想像もつかなかった。

「お嬢様。差し出がましいことですが、わたくしの意見を述べさせてください」

 自分の胸に右手を当てると、僕は榊の顔を見た。言いたいことがうまく伝わる自信はなかったが、それでも言わずにはいられない。

 相手も了承してくれたので、僕はこう切り出す。

「今、お嬢様は『王子様だなんて、本当の私じゃない』とおっしゃいました。では『本当の私』とは何なのでしょう?」

「そう言われても……」

 榊が眉をひそめた。いきなりそういうことを聞かれて戸惑っているのだろう。

「お嬢様は美幸ヶ丘の生徒であります。そして陸上部に所属し、大会においては選手として参加している。つまりそれぞれの場所において、生徒である自分と選手である自分が存在しているわけです」

「そういうことにはなるけど……」

「さらに、当店においてスイーツを美味しそうに召し上がるお嬢様も、学校で『王子様』として振る舞ってきたお嬢様も存在している。それも事実であることは否定できないですよね?」

「それはそうだけど、やっぱり嫌なものは嫌だし」

「嫌なのはわかります。わたくしとて舶用高において『王子様』であることは、今でも好きになれません。ですが事実は事実として、お嬢様もわたくしも『王子様』と呼ばれる現状があります。それを認めても心が楽になるとか精神的に救われるわけでもありませんし、全く面白いことではありません。ですが、そこから始めないと、お嬢様もわたくしも、周囲から激しく振り回されてしまうでしょう」

 これもカウンセラーから言われたことを、榊にわかりやすく伝えた言葉だ。

「それを認めたからって、どうなるっていうの? ただでさえ振り回されてるっていうのに」

「『本当の自分』とは、様々な一面が集まってできているのです。お嬢様は美幸ヶ丘の生徒で、陸上の選手で、スイーツが好きな女子で、女子校の王子様でもある。もちろんわたくしが知らないだけで、他にも様々な一面があるでしょう。それらを合わせて、お嬢様の言う『本当の自分』なのだと思います」

「つまり私は、好き嫌いはあるけど色んな自分で成り立っているということ?」

「そうです。お嬢様が『王子様だなんて、本当の私じゃない』とおっしゃったのは、『王子様以外の自分を認めてくれない』ことへの不満だったのではありませんか?」

 そこまで問いかけた時、榊も腑に落ちた表情になる。

「なるほどね……『王子様』が嫌じゃなくて、それ以外の自分も認めてほしかったんだ」

「取り巻きは派閥ごと、いえ個人でも『王子様』へのイメージは違うでしょう。そんな様々な取り巻きからの決めつけに、お嬢様は苦しめられていたのです」

「私って、そういうことで苦しんでたんだ……やっとわかった」

 氷の溶けかけたアイスティーを榊はすすった。

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