第七十五話

 残っていたパンケーキを口に運んでいた榊が、ふと手を止めて僕に顔を向ける。

「あなたも『派閥争い』や『お気持ち表明』に悩まされているみたいだけど、どうやって対処してるの?」

「必ずしも上手くいくわけではありませんが、わたくしの場合は『王子様であることを武器』にしております」

「どういうこと?」

 興味の彩りが榊の両目にあった。

「いわゆる漫画などに出てくる『女子校の王子様』らしい態度で、取り巻きのご機嫌を取ったり、たしなめたりするのです」

「なんというか、キザっぽく振る舞ったりしてるわけね」

「そんなわたくしを『許せない』とおっしゃる女子もおりますが、そうでもしなければこちらもやってはいられません」

 脳裏に社交的女子の、あの時の悔しげな顔がちらついていた。

 パンケーキの切れ端にバニラクリームを付け直すと、榊は口の中に入れて噛みしめる。

「あなたは私のことを『本物の女子校の王子様』って言ったけど、あなたに会うまでは他校でそう呼ばれている人がどんなことをしてるか、全然知らなかったの」

「わたくしもそうです」

「でも、あなたのやり方を聞いて……私にはできないなって、正直思った」

「たとえ演技でもキザな態度を取ることは、やはり恥ずかしいですか?」

「恥ずかしいというより、人をたしなめたりしたら、相手を傷つけるんじゃないかって思うし」

 榊はフォークを皿の上に置く。

「お優しいのですね」

「優しいのかな……単に相手の気持ちとか考えたりするのが苦手だから」

 少し黙り込むと榊は、ほとんど水だけになったアイスミルクティーをストローで吸う。

 そんな彼女だから、派閥争いの調停を押し付けられたり、そのことで『お気持ち表明』という名の批難をされたのは、嫌でたまらなかったに違いない。

「私、昔から体を動かすのは好きだったけど、こんな性格だから球技とかのチームプレイが苦手で、うまく馴染めなかったの」

 過去を語りだした榊の顔には、少し思いつめたものがあった。

「個人競技でも相手と争う格闘技とか、体操とかの採点競技も相手を気遣ったりしちゃうから、それも性に合わなくて」

「それで陸上を選択なされたと?」

「他に水泳もあった。どちらも個人のスピード競技で『タイム』っていう絶対基準があって勝敗が明確だけど、水の中を泳ぐより地面を走る方が好きだと思ったから、陸上を選んだわけ」

「その陸上で数々の成績を残してきたわけですから、お嬢様の選択は正しかったことになりますね」

「誰よりも早く、そして『タイム』を叩き出せば、誰にも何も言われない言わせない……『タイム』を出せなくても、それは自分の責任だから」

「確かに『タイム』にお気持ち表明したところで、数字がくつがえるわけではありませんし」

「そういうこと。だから、本当に陸上を選んでよかったって思ってる」

 榊のその精悍な顔には、自負心みたいなものが溢れていた。『王子様』をやらされてる自分が嫌いだとすれば、『陸上選手』をしている自分は一番好きなのだと、僕にもわかる。

「お嬢様が他人を傷つけたくないという、お優しい性格なのはわかりました。ですが、お嬢様自身は傷ついてもよろしいのですか?」

 こう問いかけたら、榊の表情が曇る。

「それは私も嫌よ」

「ですよね? まさかお嬢様は、全身に付いた宝石や金箔を剥がして周りに与えて、最後はみすぼらしい姿になって溶鉱炉で溶かされる最後を望んではいないでしょう」

「それって『幸福な王子』のこと?」

「かと言って、自分を悲劇のヒロインに見立てて、いつか白馬に乗った王子様が救いに来てくれると夢想しておられるわけでもありませんよね?」

「私だって『童話のお姫様』を夢見る少女じゃいられない」

 こっちの例え話に、榊はきちんとレスしてくれた。律儀というか意外とノリの良いところもあるようだ。これも僕の知らなかった、彼女の一面だろう。

 なるべく押し付けがましくならないよう、穏やかに確認してみる。

「お嬢様が傷ついた時、校内では誰も助けてくれなかったのでしょう。それが辛かったのは理解できますが、味方がいなかったのも事実です。違いますか?」

「人付き合いが苦手だから、こういう時に味方してくれる人がいなかったんだよね」

「ならばお嬢様は、自分で自分を守る方法を見つけなくてはなりません。わたくしとて他校の生徒なのですから、こうして助言することしかできないのです」

「つまり、自尊心を持てっていうこと?」

「そうです。他人を傷つけたくないのと同様、自分の心も傷つかないよう、自分で守っていくべきです」

 まだ榊は腑に落ちないでいるようだ。やがてぽつりとつぶやく。

「そうは言うけど、やっぱりあなたと同じやり方はできない」

「何もわたくしの真似をしろと申し上げているのではありません。お嬢様にはお嬢様のやり方があるはずです」

「私なりのやり方か……そんなの、見つかるかな?」

「お嬢様は数あるスポーツの中から、陸上を選び成功なされました。そんなお嬢様なら、必ず見つけられます。わたくしはそう信じております」

「陸上なら『タイム』って絶対基準があって有無を言わせない自信はあるけど、『王子様』にはそういうのはないから……でも、見つけなきゃいけないんだよね」

 静かな榊の声には、決意の響きが感じられた。

 最後に残ったパンケーキをたいらげると、榊は僕の目を真っ直ぐに見つめてくる。

「あなたは私と同い年なのに、とても大人びている。それはやっぱりTSであることが関係してるの?」

「そうかも知れません。TSであるということは、自分について色々と考えざるを得ないわけですから」

「でしょうね。『女子校の王子様』とは比べ物にならないくらい悩むはずだし」

「そんな比較に意味はありません。人それぞれの人生ですから」

 僕と榊は口をつぐんでしまった。そこへ嶋村さんが困り気味な顔で割り込んでくる。

「王子様。お嬢様に対して、そんな深刻な顔でお相手しちゃ駄目じゃない」

「申し訳ございません。つい話し込んでしまいました」

 僕が頭を下げた後、今度は嶋村さんが榊に向かって謝罪する。

「あたしは店長の嶋村と申します。お嬢様がスイーツをお召し上がりになられているというのに、このような対応をしたことに対して、深くお詫びいたします」

「いえ、こちらこそ話を聞いてくれて感謝してるんです!」

 榊の方がもっと恐縮していた。嶋村さんがお詫びとしてアイスミルクティーのお代わりを用意すると、ますます榊はその長身を縮こませてしまう。


「あなたが話してくれたこと、色々考えさせられたけど、とてもためになった。ありがとう」

 ある程度は元気を取り戻したのか、榊はさっぱりとした顔で店を出ていった。僕としても彼女と話しあったことで、今まで考えてきたことが少しづつ整理できたように思う。

 まだ店内に残っていた倉石君の席に戻ると、彼が尋ねてくる。

「彼女とは知り合いだったのかい?」

「知り合いと言いますか、お互いのことは以前から噂に聞いていたのです」

「そうなんだ」

「彼女を知っておられたのですか?」

「いや、別にそんなことないけど……」

 倉石君は語尾を濁した。僕と榊が深刻そうに話をしていたから、気になったのかもしれない。でも彼とは直接関係ないことだし、榊のことをあれこれしゃべるのもマナーに反すると思ったので、僕からは何も言わないでおく。


 まだ昼間は蒸し暑くても、夜になればかなりの涼しさを感じられるようになった。

 その夜も、仕事帰りの僕はコンビニ前で倉石君と落ち合った。今夜の彼は少し思いつめた顔をして、こっちからの話にあまり乗ってこない。

 話題が途切れてしまい、通り過ぎる車の音だけが響いた。やがて倉石君は、おもむろに口を開く。

「……こないだの、あの背の高い、体育会系みたいな彼女とは、どういう関係?」

 先日、店で見かけた榊のことを、いまだに倉石君は気にしていた。今まで彼は、僕と同じ学校に通う社交的女子や取り巻きといった他校の女子のことを、自分から聞いてきたことはなかったはずだ。珍しいとは思ったが、どこまで榊のことを話していいものか、少し迷う。

「彼女は女子校に通ってて、いわゆる『女子校の王子様』なんだ。僕も噂を聞いてたし、向こうもこっちのことは知ってた」

 榊の本名と美幸ヶ丘の名前を出さず、簡潔に言ってみた。さらに倉石君が問う。

「君が真剣になって話し込むなんて、彼女と何の話をしたんだ?」

「何って言われても、彼女も『王子様』であることに悩みを感じてて、それについて話しただけさ」

「そうか……」

 倉石君は納得がいかない様子だ。何をそこまで気にしているのかわからないが、もう少し説明すべきか。

「僕には君っていう、愚痴を聞いてくれたり励ましてくれる人がいる。でも彼女には、そんな人が今までいなかったんだ。取り巻きばかりで対等な友達もいなかったみたいだし」

「だから君に悩みを打ち明けたと?」

「店に来たのは偶然だけど、僕も『王子様』って呼ばれてるのは知ってたから、そういうことを色々話してくれたんだ」

「何ていうか、王子様同士だったのはわかったけど……あんなに話し込めるものかと思って」

 僕と榊の関係に、そこまでこだわるとは……この際は、はっきりと言っておかなくてはならないようだ。

「君だから話すけど、確かに彼女は体育会系で、スポーツにしか興味のない女子なんだ。スイーツを食べるようになったのもつい最近のことで、それ以外の例えばゲームとかのオタク的なこととか、しかも『男の娘』と『TS』の違いすら知らなかったくらいなんだ」

「そ、そうなのか?」

「それに彼女と僕は育ちっていうか住む世界も違ってて、向こうは完全にお嬢様育ちで、貧乏団地で生まれ育った僕とは比べ物にならないし、もし僕が『王子様』でも『TS』でもなかったら、何の共通点もなくて友達にすらなれないと思ったくらいさ」

「……そういうことだったのか」

「逆に君と僕は、愚痴や励ましだけでなく、ゲームやオタクの話もいっぱいできる。僕が『TS』じゃなくても、共通点があって友達になれたはずだ。まあ、僕の学力じゃ森野宮高には通えなかっただろうけど」

「悪かった! 俺が疑ってすまなかった。許してくれ!!」

 いきなり倉石君が頭を下げた。全身から申し訳無さが溢れ出ている。

「別に怒ってないって。何を疑ってたって言うんだ?」

「いや……それはその、何ていうか……うーん……」

 しどろもどろな倉石君がおかしくて、微笑みを誘われてしまう。

「これ以上は彼女のプライバシーに関わるから、もう言わないよ。これで納得してくれるかい?」

「わかった。俺も余計なことは聞かないから」

 ようやく倉石君がホッとした顔になっていた。彼が何を疑っていたかは知らないけど、『余計なこと』を詮索しないのも友達としてのあり方だし、今日のところはこれで終わりにしよう。

 乾いた初秋の夜風が吹いて、心地よい涼しさが感じられた。いよいよ本格的な秋が訪れようとしている。

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