第二節 短距離走者の長い孤独
第七十六話
十月に入ったというのに、朝夕はともかく昼間は暑い日々が続いていた。ここまで来ると、残暑という表現では済まされないような感がある。一刻も早く秋が訪れてくれるよう願っているのは、僕だけではないはずだ。
まだ暑さが続いてることで、どうしても体は汗ばみがちだ。だから汗ふきシートや消臭スプレーの消費はいまだ激しい訳で、それらを買い求めるために、日曜昼間のドラッグストアへ買い物に向かった。
買い物かごに品物を入れていると、僕と同じ物を買おうとしている客がいた。ふとその方向を見ると、相手と目が合う。
「あら、あなたも買物?」
榊七海だった。今日の彼女はスポーツキャップにスポーツジャケット、ロングスパッツにランニングシューズといった出で立ちだ。小さめのスポーツリュックを肩にかけているから、ランニングの途中で買物に来たような雰囲気である。
「まだまだ暑いからね。こういった物はいっぱい必要なんだ」
「普段から身だしなみとかに気を使ってるの?」
「ああいう店で働くから清潔感は大事だし、変な臭いはさせられないさ」
ここはフェアリーパラダイスではないのだから、僕は敬語ではない言葉遣いで榊と話した。すると彼女がクスッとする。
「普段のあなたって、男っぽい話し方するんだ。あなたの方こそ『本物の女子校の王子様』みたい」
「僕は元からこんな口調さ。朝おんして声は変わったけど、話し方まで女っぽくなったら、そっちの方がおかしいだろう?」
「それもそうか。でもそういう話し方だからこそ、『王子様であることを武器』にできるんだね」
榊が僕のような男っぽい話し方をする姿を、わずかに想像してみた。その引き締まった顔立ちや大柄な体格から、今以上に『本物の女子校の王子様』らしさがあふれるとは思ったが、声質が澄んでいるので迫力には少々かけるかもしれない。
レジを済ませて僕達は店の外へ出た。リュックに品物を入れると、榊は両肩に担ぐ。
「これからバイトに行くんでしょう。頑張ってね」
「ありがとう。君はランニングに行くのかい?」
「もう試合はないけど、走ること自体は好きだから。じゃあね」
笑顔でキャップを被り直すと、榊は駆け出していった。もちろん全力ではないけれど、走っていくその後姿は、やはり様になっているなと感じられる。
反対方向へと歩き出しながら、僕は榊との会話を振り返ってみた。人付き合いは苦手だと言っていた彼女だが、僕とは気さくに話してくれた。気を許した相手には、そういう面を見せてくれるのだろう。
きっと榊は、例えるなら『ストイックなアスリート系』の王子様だと、周囲からは思われているはずだ。そんな彼女が、スイーツの食べ歩きに興味があると知ったら、取り巻きはイメージに反するとしてお気持ち表明をするかもしれない。一度付いたイメージを払拭するのは難しいかもしれないが、それくらいの趣味は認めてもいいんじゃないのか……と僕は思うのだ。
「ねえ、知ってる? 美幸ヶ丘の王子様が大変なことになってるらしいよ~」
週の半ば、朝の教室に入ったら、社交的女子がそう切り出した。しかも、その割に嬉しそうな表情である。
何でお前がそんなことを知っている……と聞き返すのは愚問だし、榊が取り巻きの一部とトラブっていたことは、以前に本人から直接聞いている。それ以外にも彼女の周りで、また面倒事が発生したのだろうか。
「詳しく知りたくない?」
ニヤニヤしつつこっちを見上げる、その表情が小憎らしい。
この女の思惑は読めた。噂を伝えることで僕から榊に対してアプローチさせて、さらに問題を激化させようというのだろう。そんな手玉に乗せられるのは癪でしかなかった。
「知ったところで、こっちが何かできるわけじゃない。だから聞かないでおく」
「クールね。そう言うと思ってたし、こっちも言わないでおく」
あっさり引き下がったので、逆に疑いが強くなる。
「僕に言わない代わりに、他の奴らに噂を広めるつもりか?」
「バカにしないでくれる。私だってこういう噂を話す相手は見極めてるんだから」
壁ドン以後、この女の『悪役令嬢』としてのプライドはかなりレベルアップしたらしい……妙なところで感心してしまう。
社交的女子は去っていったが、『榊が大変だ』と聞かされてしまえば、気になってしまうのは人情だ。もしかして、あの女は僕の心をかき乱すことが目的だったのではと思わざるを得ない。
週末の夜ともなれば、フェアリーパラダイスの客は増える。しかもネットニュースの効果が続いているのか、客が帰ってもまたすぐに別の客が来店し、息つく暇もないくらいだ。
休憩が終わった直後、倉石君が来てくれた。彼とゲーム攻略についての情報交換などをしていると、ドアが開いて榊が姿を見せた。ともみさんは休憩中で、絵舞さんは別の客をお相手していたから、僕が出迎えに行く。
「また帰ってきちゃった」
お茶目に笑う榊を、倉石君の隣席へと案内した。ちょうどそこだけしか空いていなかったのだ。
アイスオレとフルーツケーキのセットを榊は注文した。そんな彼女を、倉石君がチラチラと伺っているのがわかった。この前、榊についてはあれほど説明したのに、まだ気にしているようだ。
「いただきます」
小声で行儀よくあいさつして、榊はクリームの付いた苺をパクついた。毎度のことながら、心底美味しそうに食べてくれる彼女を見ると、やはり『王子様』というより、普通のスイーツ好きな女子としか思えない。
こないだの社交的女子は『榊が大変なことになってるらしい』と言っていたが、今夜の彼女からはそんな様子など全く見受けられない。前回来店した時は取り巻きとトラブった直後で、一目で落ち込んでいたのがわかるくらいだった。
そもそも噂とやらはガセネタだった可能性もある。真偽を確かめてみたい気持ちはあるが、榊が自分から話さない限りは聞くべきではない。なので僕は『TSの王子様』としての応対に務める。
「お嬢様は競技会に出ることがなくなっても、ランニングで体を鍛えているのですか?」
「陸上部で自主トレしてもいいんだけど、校内にいると取り巻きに囲まれちゃうから、最近はすぐに帰って一人で走ってる」
「お嬢様は短距離走の選手ですが、長距離やマラソンにも挑戦してみたいのでしょうか?」
「大学に入ったら、そっちもやってみたいなって思ってる。いずれにしても、走ってる時の私が本当の……いえ、一番好きな自分だから」
この前、僕が『本当の自分とは、様々な一面が集まってできている』と言ったことを思い出したのか、榊は微笑んでアイスオレを含んだ。
なかなか客足が途絶えないので、榊や倉石君の相手だけを努めているわけにもいかなかった。他の客を応対して、ようやく榊の席へ戻った時には、すでに彼女はケーキを平らげていた。
満足げな表情の榊は、僕に向けてしみじみとした口調で語る。
「あなたに言われたことで、私は王子様を含めた自分のあり方を見直すきっかけができた。そこで、あえて一人で走ることで、今はなるべく他人と距離を置くようにしてるの」
「それがお嬢様なりの、自分の守り方なのですね」
「応援してくれてるから、感謝しなきゃとは思っていたけど、やっぱり他人とは間を空けておくべきなんだとわかったし……」
どこか寂しげな影をまといつつ、榊はつぶやいた。あえて孤独でいることを選択したようなことを言っているが、やっぱり誰かと繋がりが欲しいのかもしれない。
榊にとっての僕は、僕にとっての倉石君に当たるのだろう。でも僕と彼は店以外でも、仕事帰りに顔を合わせている。ならば榊にも、せめて美幸ヶ丘の中に取り巻きではない対等な友人ができれば、彼女にとって一番いいことではと思える。
そういう友達ができるまでは、話を聞くだけでも榊の相手を努めよう……と心に決めた。そんな僕を榊が見上げてくる。
「……ところで、私とあなたの関係って何だと思う?」
「そう言われましても、この店以外での接点はほぼないわけですから」
「前からお互いの噂は知ってて、初めて会った時からすんなり話ができて、次は相談にも乗ってくれた……考えてみると、不思議な関係だよね」
アイスオレをすすりつつ、榊が生真面目に考え込む。そこで僕は自分なりの考えを口にしてみる。
「あえて言うなら『戦友』でしょうか?」
「何その堅苦しい言い方」
榊が吹き出した。すでにアイスオレは飲み込んでいたので中身までは出さなかったが。
「私達は同じ『王子様』でありながら、別の場所にいて、それぞれのやり方で悪戦苦闘している。ですから、そう申し上げました」
「そういうことか。なら私達は『同じ競技会に参加している、別種目の選手』って感じ。私がトラックを走っている隣で、あなたは棒高跳びとかしてる、そんなイメージかな」
「なるほど、そちらの方がしっくりきます」
陸上選手である榊らしい表現だと僕は思った。二人で笑い合っていたら、ふと視線を感じる。
隣席の倉石君が僕達を見詰めていた。僕と目が合ったら、すぐに顔を背けてしまう。今までの会話も耳をそばだてて聞いていたはずだし、よほど榊に興味があるのだろうか。
「またわたくしと話がしたくなったら、いつでもここへお帰りください」
「ありがとう。やっぱりあなたと出会えてよかった」
笑顔でドアを開けた榊を、僕は見送った。その後、会計を済ませた倉石君も店を出ようとする。
僕を見る倉石君の目には、まだ釈然としないような気配があった。あえて僕は言明する。
「隣でお聞きになられていたように、わたくしと彼女は『戦友』で、『別種目の選手』です。これでも納得いきませんか?」
「何も言ってないって!」
「その目が物語っております」
「う……」
図星を突かれた倉石君が言葉を失っていた。さらに切り込んでみる。
「もしかして倉石様は、彼女のような、いわゆる『女子校の王子様』が好みだったのですか?」
「え? いや、何でそんな……」
今度は意外さを顔中で表していた。まるでこっちが的外れなことを言ったように思えてしまい、ますます彼の気持ちがわからなくなる。
そこへ絵舞さんが、おかしくてたまらないと言いたげな顔で僕達の間に立つ。
「倉石様がお好きなのは『女子校の王子様』ではなく、『TSの王子様』だと思いますわ」
「えっ!?」
僕は絶句し、倉石君は目を丸くしていた。どういうことかと戸惑っていると、彼は頬を真赤にさせつつ訴えかけてくる。
「お、俺はこの店で、『王子様』として働く君を見るのが好きなんだ! だからこうして通ってるんだよぉ」
「そうだったのですか……ありがとうございます!」
ドギマギとしながら倉石君へと頭を下げた。絵舞さんの含み笑いが聞こえてくる。
「周りから見ればわかることでも、当人達は気づいていないということもあるのですね」
何のことかと思いつつ、僕と倉石君は言葉もなく、ドアの前で立ち尽くしているしかなかった。
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