第十七話

 あれからしばらく経ったが、相変わらず先生は、少し文字を入力しては取り消すという行為を繰り返していた。休憩から戻ってきたともみさんが、いたわるような声をかける。

「かなり執筆に煮詰まってるようですね、先生」

「うん……もうすぐ締切なのに」

 画面に目線を落としたまま、腕組みをして先生はため息を吐く。ともみさんの隣で僕は、彼女の横顔を眺めている。

 嶋村さんだって、最初に僕を見かけた時は男の娘だと思いこんでいた。だけど先生は、TSと見抜いただけでなく、わざわざ画面を使って問い質してきた。そんなに僕がTSだってことが気になるんだろうか。

「ともみちゃーん、王子様、これ片付けちゃってよ」

 常連客の二人が席にあったグラスや皿を指差した。僕達はトレーを手にして、そこへ向かう。

「今日もたくさん食べていただいて、ありがとうございます。他に注文はありますか?」

 ともみさんがたずねると、二人はメニューを眺めてあれこれと選んでいる。まだ閉店には時間があるけど、彼らはギリギリまで粘るつもりのようだ。

 僕は食べ終えた食器をトレーに乗せて、厨房へと運ぼうとした。乗せ方が不安定だったのか、グラスが大きく揺れてトレーから落ちてしまう。

 床を転がったグラスは、幸いにも割れはしなかったが、残っていたクリームが飛び散ってしまった。飛沫が先生の足元に置いてあったリュックにもかかってしまう。

「申し訳ありません!」

 すぐに使い捨てのおしぼりで飛沫を拭いてみたが、少し染みが残ってしまった。こっちの失敗なのに先生は責めるでもなく、気のない声を出す。

「いいのよ、そろそろ新しいのに変えようとか思ってたから」

 物音を聞きつけて、休憩中だった絵舞さんと、事務室から嶋村さんも出てきた。モップを取り出した絵舞さんが床を拭いている間、嶋村さんが先生に謝罪する。

「申し訳ありません。まだ新人ですけど、こんな粗相してしまいまして、本当にご迷惑をおかけしました」

「ホントにいいんですよ。誰も怪我しなかったし」

 僕としても初めての失敗だったし、相手は店にとって特別な存在の人だけあって、気が動転しそうだった。それでも先生に対し、深々と頭を下げる。

「本当に申し訳ありませんでした。なんとお詫びしていいものか」

「そこまでされても……」

 困った顔を見せつつも、先生は僕の全身を観察しているのがわかった。やがて彼女は僕を見上げて、ためらいがちに話す。

「……弁償とかはいいから、代わりに……してほしいことがあるの」

「なんでしょう?」

「その……私に『壁ドン』を、お願いするわ」

 聞き覚えのない言葉を出されて、僕は一瞬呆けてしまう。

「壁ドン? 当店では丼物どんぶりもののメニューはございませんが」

「違うってば! 壁ドンは『女子校の王子様』の定番ネタじゃないか。ボクが貸した資料にもちゃんと載ってただろ?」

 隣のともみさんが、盛大なツッコミを入れてきた。その場で僕は、壁ドンの何たるかを、改めてともみさんから説明を受ける羽目になる。


『壁ドン』とは、相手を壁際まで追い込んで逃げ場をなくしてから、片手か両手で対象越しに壁をドンと叩く行為のことである。場合によっては対象を押し付けてドンすることもある。


「……申し訳ありません。わたくしが不勉強でございました」

 ともみさんにまで頭を下げている僕を見て、嶋村さんと絵舞さんが苦笑いしていた。次にともみさんは、先生に向かって問い直す。

「でも先生、どうして壁ドンを?」

「今、書いてるのが、悪役令嬢の転生ものなんだけど……」

 そこから先生は、執筆中の小説について解説を始める。


 現代女性の主人公が悪役令嬢として転生したのは、乱世の真っ直中にある大陸の、とある小国だった。しかも悪役令嬢は、その国を支配する権力者の一人娘でもあった。

 このままだと悪役令嬢は放蕩の限りを尽くして、国ごと滅んでしまう事になっていた。だが主人公は、暗殺された父から地位を継承すると、持ち前の正義感と転生前の知識を活かし、率先して内政改革に乗り出す。

 小国は大河の河口に面した港町でもあった。そんな地理を活かすべく主人公は、それぞれ外洋と河川を行き来する商人を利用した中継貿易を展開し、莫大な富を得た。そこに目をつけたのは、隣国に進出してきた、軍事的大国の王であった。

 天下統一の野望に燃える若き王は、最初は軍事力を持って小国を攻め落とそうとした。だが、それに備えて主人公は予め城壁等の防御を固めており、その上で自ら兵士達を督戦して『自分達の国は自分達で守る』という意識を徹底させた。そのため大国は、小国を陥落させることはできなかった。

 停戦交渉においても主人公は巧みな交渉力により、領域の安堵を約束させた。その活躍ぶりに興味を抱いた大国の王は、親善と称して主人公の住む宮殿へと乗り込む。

 二人きりになった時、王は主人公を壁際まで追い込み、こう凄みを利かせる。

「我がきさきとなれい!」

 この時、悪役令嬢である主人公の、人生最大の決断が下される。


「……なるほど、そこで壁ドンが出てくると」

「そう。でも私、壁ドンなんてされたことも見たこともないから、リアリティが込められなくて、そのシーンがうまく表現できないのよ」

 うなずいているともみさんに、眉根を寄せた先生がこめかみをかいていた。

「頼んでもないのに粗筋全部語ってくれた!」

「さすがオレらの先生だ!」

 背後で常連の二人がささやきあってるのが聞こえる。彼らも先生のファンみたいだ。

 僕としては、そんな壮大なストーリーは思いつくのに、壁ドンが出てくるだけのワンシーンが書けなくて、今まで苦悩してたことの方が信じられなかった。小説を書くのって、そんなところでつまずくものなのか……書いたことのない僕には、全然わからない。

「御主人様でもある先生からの要望なのだから、メイドとしては応えなくてはいけないよ」

 ともみさんから諭されたからには、僕もやらざるを得なくなる。

「では不肖ながら、わたくしが壁ドンを務めさせていただきます」

 こうして僕は人生初の壁ドンに臨む。嶋村さん、ともみさんと絵舞さん、さらに常連客の二人が見守っている。

 窓側と反対の壁に、先生が立つ。大柄な僕が彼女に覆いかぶさるように追い込むと、右手で壁をドンと叩く。

「これでいかがでしょうか?」

「今度は、ワイルドに口説いてほしい」

 難しいリクエストだ。さっきの粗筋に出てきた、野望の王様みたいなセリフを言えばいいのか……そこで、ともみさんからのアドバイスが入る。

「王子様らしさも忘れないで!」

 王子様か……そういや、さっき『フランク王国』とか言われたけど、もっと有名な国があったはずだ。その国名を思い出して、僕は先生の両目を見つめてから、こう告げる。


「君の中に、ローマ帝国を築いてあげよう」


「……ひゃあぁぁぁあぁぁあ……ふあぁぁあああぁ!」

 調子外れな悲鳴を上げつつ、先生が口をはわわとさせていた。その場にしゃがみ込むと、両手の指をワナワナ震わせる。

「大丈夫ですか!?」

 先生の肩に手を置くと、微妙に震えていた。直後、それがピタリと止まると、彼女は勢いよく立ち上がる。

「これよ! これだわっ!!」

 カッと目を見開き、素早く席に戻った先生は、ノートPCのキーボードに打鍵を始めた。その運指は、さっきまでのもたつきぶりからは想像もつかないほどの速さである。

 変化に唖然としていた僕へ、ともみさんが肩に手をポンと乗せる。

「先生は執筆モードに入った。後は完成まで、そっとしておくんだ」

 これこそが先生の、普段の執筆なのかと感心してたら、嶋村さんと絵舞さんも笑顔で僕を讃えてくる。

「ここまでやるなんて、あなたはあたしが見込んだ以上の逸材ね」

「初めてなのに、これほど堂に入った演技ができるなんて、素敵ですわ」

 とっさに言っただけなのに、ここまで持ち上げられると、照れくさいやら恥ずかしいやらで、顔から火が出るようだ。そんな僕の背後で、常連の二人が声を上げている。

「王子様! オレ達にも壁ドン一丁お願いします!!」

「オレの中にもビザンチン○ン帝国を築いてくれー!」

「ヨッシー御主人様、おかちゃん御主人様、二人とも落ち着いてください!」

 ともみさんがなだめに回るが、二人は中々承知しない様子だった。


 結局、閉店間際になって、先生の執筆は完了した。

「君のおかげよ。一番書きたかった場面だから、手を抜きたくなかったの」

「こちらこそ、お役に立てて光栄です」

 書ききった満足感を口調と表情にも込めて、深く礼を述べる彼女に、僕は恐縮するしかない。そういうシーンだからこそ、力を入れたかったのかと、ようやく納得もいく。


 星の瞬く夜空の下、僕は自宅までの道を歩きながら、男の娘メイド『王子様』としての初仕事を振り返ってみる。

 確かに疲れはしたし、失敗もあったけど、最後は先生に感謝されたのだから、『終わりよければ全て良し』といったところかもしれない。

 これからも仕事は続く。失敗や矛盾だっていくらでも出てくるだろうけど、今はただ家へ帰って休みたい……その前に、オナニーはするけどね。


 翌日、フェアリーパラダイスの来店ポイントカードが満点になった時の、男の娘メイドからの特別サービスの一覧に、次のような項目が追加されていた。


『王子様からの壁ドン』(女性の御主人様専用)


「……なんなんですか、これは?」

 不本意極まりない気持ちでたずねた僕に、嶋村さんが屈託のない笑顔で答える。

「昨日はあんな名場面を見せられたんだから、これをサービスとして活かさないのはもったいないと思ったのよ」

「あれは先生だから、したことです」

「だったら、お客様にもできるはずよ。あたし達は、お客様に喜んでいただくことが、一番大事なんだから」

 店長である嶋村さんが決めたことだし、ともみさんと絵舞さんも賛成している。面白くはないが、店員である僕は従わざるを得ない。

 面白くないと感じていたのは、僕だけではなかった。

「なんで王子様の壁ドンは、男じゃ駄目なんだよ!?」

「オレ達だって壁ドンされたいんだ! これは差別だ!!」

 今日も来店した常連の二人が憤慨している。昨夜は絵舞さんからサービスしてもらいたがってたくせに、随分な変わりようだ。

「女じゃないと駄目なら、オレ達だって朝おんしてやる!」

「TSしたら、好きなだけ壁ドンしてもらうわよ!」

 そんなことのためだけに、朝おんしてTSになりたいだなんて、当人である僕からすれば『性転換をなめているのか!?』と、問い詰めてやりたかった。

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