第三節 真夏の祭典

第六十五話

 真夏の空が真上にあった。通路の向う側にある、逆さまの四角錐が四つ繋がった大きな建物が、強い光に照らされて白っぽく見える。

 ついにこの日が来た。今日は八月の中盤であり、夏コミケの開催二日目でもある。そして僕が、初めてのコスプレを披露する日でもあるのだ。

 遊井名田先生のサークル『遊井名田本舗』に所属している僕は、ともみさんや倉石君と一緒に会場へと向かっていた。先生は新刊の同人誌が入ったキャリーケースを引き、ともみさんと僕はコスプレ衣装や小道具の入ったバッグを抱えている。

 倉石君はキャスター付きの大型クーラーボックスを引っ張っていた。その中には、僕達が水分補給するためのペットボトル入り飲料等が詰め込んである。念のために僕と倉石君は予備の飲み物を持参しているから、足りなくなるということはないはずだ。

 すでに通路には十時半からのアーリー入場を待つ、一般参加者が長蛇の列を作っていた。その中に常連の二人組であるよっしーさんとオカチャンさんがいて、僕達に向かって笑顔で手を振っている。

 二人に見送られつつ、僕達四人は会場内に足を踏み入れた。時間は九時ちょうど、先生が受付を済ませた後、予め割り当てられているスペースへと移動する。ティアと同様、ジャンルごとにサークルがまとめられているが、夏コミケは参加数も多いためか、文芸・小説だけでもかなり広い面積があった。

 サークルスペースは、これもティアと同じく会議机の半分が割り当てられ、パイプ椅子も二脚用意されていた。その場に荷物を置くと、ようやく一息つく。

「二人とも、後は任せたよ。行ってくるね」

 ともみさんは僕と倉石君に設営を頼むと、更衣室先行入場の受付に移動した。先生を手伝いつつ、僕達は開設の準備に入る。

 今回掲示するポスターも、前作と同じイラストレーターの手によるものだが、設定が十年後ということで、ヒロインである『悪役令嬢』の顔立ちが大人びて描かれていると感じられたし、『軍事的大国の王』の方は渋みが深まっているようにも思えた。

「プロの人が描いただけあって、迫力あるよね」

 倉石君もイラストを見入っていた。以前、ティアで買った前作の同人誌も『楽しんで読んだ』と言っていたから、彼も先生のファンになっていたわけだ。

 最後に先生が机に同人誌を並べて、設営は完了した。アーリー入場の参加者が入ってくるまでまだ時間があったので、水分補給しつつ僕達はしばし談話する。

 倉石君は昨日の夏コミケ一日目も、午後入場で同人誌を買いに行ったと打ち明けた。

「どうしても欲しい▽▽の同人誌ほんが何冊かあって、通販委託しないのもあるっていうから」

 ▽▽推しの倉石君らしい行動力だ。しかもあるサークルの前で、常連の二人組にも遭遇したという。

「もしかして二人は、昨日もアーリー入場したのかな?」

「そう言ってた。キャリーケースにいっぱい同人誌ほんが詰まってたみたいだから」

「昨日だって、相当暑かったはずだけど」

「別れ際に『明日のこともあるんだから、なるべく早く帰って休むように』って、こっちが気を使われたよ」

 あの二人組だって、今日は僕とともみさんのコスプレを撮影しなくてはならないのに、人のことを言っている場合ではないような気もした。

 予想以上な二人のタフさに感心していたら、先生が塩タブレットを口にしながら昔のことを話してくれる。

「以前、コミケが三日間行われていた時も、あの二人は毎日、早朝から参加してたんだよね」

 彼らのコミケにかける情熱は、ある意味筋金入りだとわかった。もはや僕と倉石君は呆れ混じりに笑うしかない。


 十時半、アーリー入場の参加者達が、文字通りなだれ込んできた。先生のサークルにも、案外早く人が訪れてくる。

 ティアの時と同様、見本を立ち読みしてから買っていく人、そのまま去っていく人がいる。そして先生の悠然とした態度も以前と同じだった。違うのは、先生の元へあいさつに来た、他のサークルの人達がいたことだ。そういう相手に対しては、先生も歓喜の表情で出迎える。

 コミケはティアより規模が大きいし、オリジナルだけのティアに参加しなかった、いわゆる二次創作を手掛けている人もいるはずだから、先生の知人が参加している割合も高いのだろう。

 知人が去った後、先生はしみじみとした口調で語る。

「今は遠くに住んでて、ティアは無理でも、コミケだけは必ず参加するって人もいるからね。そういう人達が元気に活動しているのを見ると、ホッとするよ」

 ヴァンタンさんのように、様々な事情で活動をやめていった人達もいて、そのまま音信不通になってしまったこともあったという。だから、こうして今でも会えるのは幸運なことだと言って、先生は同人誌を並べ直した。

 十一時からは午前入場が開始されて、さらに場内は参加者達で混雑していった。人混みの間を縫うようにして、格闘ゲームの男の娘キャラのコスを着たともみさんが、常連の二人組を引き連れてサークルスペースに戻ってくる。

「ただいま。いや~、やっぱり暑いね」

 本番ということでメイクをバッチリ決めたともみさんが、クーラーボックスから飲み物を取り出して、ゴクコクと飲む。場内に入ったばかりの頃は、気温はまだそれほど高くはないと思っていたが、二時間も経てば確かに暑さが感じられてくる。

 デジカメとビデオカメラを手にした二人組は、それぞれのモニター画面を確認していた。先行して着替えていたともみさんを、すでに撮影していたようだ。

「うむ、いい具合に撮れてるな」

「次は王子様の出番だね。期待してるよ~」

「はい、では行ってきます」

 ともみさんに売り子を任せると、コス等が入ったバッグを取り上げ、倉石君とともに更衣室へ向かう。


 男性用と女性用の更衣室があるエリアの、登録受付の前では、コスプレに着替えようとする参加者でごった返していた。登録の列に並んで待っていると、やがて僕の番が来る。

 事前申告はしてあるが、改めて係の人に『自分はTSである』と告げると、男性用と女性用の更衣室の狭間にあった、かなり小さなテントのスペースを示された。そこがTS専用の更衣室だった。ともみさんから前もって聞かされていたけど、本当にそんなものが用意してあることに、目を見張ってしまう。

 隣にいた倉石君も、感心したように全体を眺めている。

「もしかして、今日は君以外のTSの人も参加してるかもね」

「う~ん、それはどうだろう……」

 僕が今まで会ったことのあるTSは、ゲイバーに勤めているという広夢さん一人だけだ。いくらコミケには大勢の人達が訪れるとはいっても、そうそう同じTSと出会えるとは思えない。それに、そういう人とここで初めて顔を合わせたとして、どういう態度を取ればいいのかよくわからない。

 その場に倉石君を待機させて、TS用更衣室に入った。中は無人で、僕が入る前に使用された気配もない。やっぱり今日のコミケにおいて、TSは僕一人のようだ。

 バッグから衣装を取り出し、手早く着替える。スカートの中の下着や素足が見えないよう、薄手のストッキングと黒いインナーパンツもはいておく。メイクは店で勤務する時と同じ程度で、そこに日焼け止めを塗る。

 ウィッグを被って靴を履き替え、最後に全身をチェックしてみた。一応、自分では問題ないつもりだが、後は倉石君に確認してもらうことにしよう。

 更衣室を出ると、倉石君は目と口を丸く開いて、こっちの姿に見入っていた。僕は全身をゆっくりと一回転させる。

「どっかおかしくないかい?」

「だ、大丈夫! バッチリ決まってる!!」

 何度もうなずきながら太鼓判を押してくれたので、これで異常はないはずだ。後は暑さに負けず、▽▽へとなりきればいい。

 更衣室のあるホールから隣のコスプレエリアに入ると、ともみさんと同じく『更衣室先行入場チケット』を利用して、先に着替えていたコスプレイヤー達であふれかえっていた。そこを抜けて先生達のいるスペースへ戻ろうとした時、エリアの中央に大きな四角のパネルが設置されていることに気づく。夏コミケの開催日の日付と、コミケのロゴマークが格子状に配置されたパネルの前では、コスプレイヤーがいろんなポーズを取りつつ、スマホやカメラを構えた一般参加者達が撮影している。

「あれは記念撮影用の『コスプレフォトスポット』だね」

 倉石君からの説明を聞いた僕は、パネルを指差す。

「あそこに立つから、君のスマホで撮影してくれ」

「皆の所に戻ってからでなくても、いいのかい?」

「僕のコスプレは、一番最初に君が撮ってほしいんだ」

 要望を聞いた倉石君は、慌ててポケットからスマホを取り出し、カメラアプリを起動させた。コスプレフォトスポットが空いたタイミングを見計らって、僕はパネルの前に立つと彼の方へ振り返る。

 スマホを構えた倉石君に向けて、最初は直立不動で、続けて色々とポーズを構えてみた。その間、彼は何度もシャッターを押す。

「ありがとう。うまく撮れたよ」

「僕のポーズとか、どうだった?」

「もちろん完璧だよ」

 サムズアップで答えてくれた倉石君を見て、改めて自信が湧いてきた。


 サークルスペースに戻ってきた僕を見て、常連の二人組が感心したような声を上げる。

「おおっ! イケてるじゃないか」

「うんうん、背の高さもあって、マジでコスプレ映えしてるよ~」

「ありがとうございます。ヴァンタンさんの作ってくれたコスのおかげです」

 試着で見ていた先生やともみさんに倉石君だけでなく、よっしーさんとオカチャンさんまで褒めてくれたのは、やはりヴァンタンさんの力量によるものが大きいだろう。

 ともみさんに続いて僕もコスへ着替えたということで、公式カメラマン役である二人組がサークル全体の記念撮影をしてくれた。椅子に腰掛けている先生を中央にして、ともみさんと僕が両脇に並び、倉石君が背後に立つ。

 それが終わると、いよいよ僕が撮影される番だ。夏コミケの会場には、さっき倉石君が撮影してくれた建物内のコスプレエリア以外にも、屋外に別のコスプレエリアがあった。二人組の先導で、僕とサポート役の倉石君は移動を開始する。

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