第六章 人それぞれの王子様

第一節 種と論を求めて

第七十一話

 夕刻前のランジェリーショップで買物を終えた僕は、そのままフェアリーパラダイスへ歩き出す。女物の下着類もかなり揃えられたし、これで毎日の交換にも余裕ができる。

 バイトを始めて給料が入るようになってから、僕の懐も大分暖かくなった。さすがに絵舞さんみたいな高級な下着や、ともみさんと同じ外国ブランドのスポーツショーツには手が出せないが、そういうのは大人になってからにしよう。それに買わなくてはいけない物は、他にもある。

 これからの季節に向けて、女物の服もさらに必要だ。防寒着は男だった頃の物で間に合うが、シャツやパンツ類はまだまだ足りない。肌寒くなる前には購入しておくべきだろう。

 そういや、店で使う化粧水やリップクリームなどがそろそろなくなりつつあった。残暑が続いているから汗ふきシートや消臭スプレーも必要だし、もしかすると他の小道具や消耗品も減ってるかもしれない。それらは明日にでもドラッグストアへ買いに行こう。

 このように必需品はすぐ買い足せるようになったし、電子書籍の購入やゲームへの課金といった娯楽へも気兼ねなくできるようになった。貯金まではできないが、お金に余裕があるという今の状況は、貧乏だった僕としては嬉しいことである。


 開店前のミーティングで、嶋村さんがこんなことを言った。

「今日はニュースサイトからの取材があるから、皆も協力してほしいの」

 つい先日、オタク系のネタを中心とした情報を発信する『NTRL』という名のニュースサイトから、フェアリーパラダイスに取材の申し込みがあったそうだ。

 ともみさんが手を挙げる。

「取材って、どんなことするんですか?」

「大々的に取り上げてくれるわけじゃないようだけど、あたしへのインタビューとか店内の様子を撮影したり、他にあなた達の紹介といったところね」

「これは店の宣伝にもなりますね」

「そうね。これで来客が増えれば収益の増加も見込めることだし、折角の機会だから引き受けたってわけ」

 店長である嶋村さんとしては、チャンスは逃したくないと考えていることが、僕にもわかった。

 絵舞さんが念を押すように尋ねる。

「私達は普段よりも丁寧な接客を心がければよろしいのでしょうか?」

「そこまで固くなる必要はないわ。記事を見た人が来店したくなるような気持ちになってもらうのが大事だから、いつもどおりでいいのよ」

 続いて嶋村さんがやや表情を固くして、僕に視線を向ける。

「あなたのことは『TSの王子様』として紹介します。TSであろうと、ちゃんとメイドとして働いていることをアピールしておきたいし、もちろんあなたのプライベートまで話すつもりはないから、それでいいわね?」

「構いません。この店で僕は、そう名乗って働いているのですから」

「あなたならそう言うと思ってた」

 嶋村さんの顔が、安堵したように和らいでいた。

 ミーティングが終了して開店準備を進めていると、何故か絵舞さんが微笑んでくる。

「今のあなたは、以前よりも王子様としての自信にあふれていますね」

「そこまで気負ってるわけじゃないですよ」

「それを自然体に表現できるのが素晴らしいと思います。あの同級生のお嬢様がおっしゃったことは、あながち間違っていないのでしょう」

 絵舞さんが言ったのは、先月の金曜の夜、僕から壁ドンされた時に社交的女子が吐き捨てたセリフだ。それは僕自身の頭の片隅にも引っかかり続けて、今でも離れないでいる。


『あんたは自分が『王子様』であることを自覚して、それを最大限の武器にしてる……私が許せないのはそこよ!』


 悔しさで顔中を満たしていた、あの女の表情が忘れられない。

 確かに今の僕は、フェアリーパラダイスにおいて『TSの王子様』として働くことに誇りみたいなものは感じているし、仕事自体もうまくいっている。学校においても、多少の不満はあるが取り巻き達の求めに応じて『王子様』として振る舞うことだってできる。

 そんな僕を社交的女子は『許せない』と言い切った。だが、そこまで不満を訴えられる筋合いはないという気持ちもある。

 あの時にも言い返したが、最初に僕を『王子様』と呼んだのはあの女だ。それがふさわしくないというのなら、元が男でTSである僕をそう呼びかけたところから間違っている。

 今頃になって、僕にどうしろというのか……社交的女子への反発心を抱えたまま、フェアリーパラダイスの開店時間を迎える。


 ニュースサイトの人が取材に訪れたのは、開店してから二時間経ってからのことだ。

「『なうろぱ』です。ニュースサイト『NTRL』にて編集兼ライターを担当してます」

 長い丈のワンピース、栗色に染めたロングヘアの女性が、出迎えた嶋村さんと名刺交換した。おっとりとした雰囲気をしている彼女は、嶋村さんより少し若い年代に思える。

 なうろぱさんからインタビューを受けている嶋村さんを、常連の二人組が感心したように眺めている。

「ついにこの店にも取材が来るようになったのか」

「昔は『知る人ぞ知る』的な店だったけど、有名になるのはいいことだよ」

 そばにいた僕は、よっしーさんとオカチャンさんが店に通い始めた頃の様子を尋ねてみた。二人は少し遠い目になる。

「あの頃は、ともみちゃんもまだいなかったし、男の娘メイドも入れ替わりが激しくて、顔を覚えた頃にはもういなくなってたこともあったりしたよ」

「ひどい時はメイド一人と店長さんでずっと切り盛りしてたこともあったし、人手不足で大変そうだったね~」

 遊井名田先生が小説で取り上げたり、ともみさんが働き出す前のことは断片的にしか知らなかったが、嶋村さんが事務仕事以外に接客までこなさなくてはならなかった、というのは初めて聞いた。男の娘メイドの引き抜きがあったのもその頃のはずだから、精神的にも苦境だったに違いない。

 だからこそ、こうして取材が来てくれたことは、嶋村さんにとって晴れがましい思いがしていることだろう。インタビューに答えるその声が、弾んだようにも聞こえてくる。

 続いてなうろぱさんは、男の娘メイド達の取材に入った。最初に嶋村さんがともみさんを紹介する。

「当店のベテラン男の娘メイドで、ムードメーカーでもあるんですよ」

 他にもオタク的な知識が豊富で、コミケでコスプレもしているといった話を聞いて、なうろぱさんは小さめのノートにメモしていった。

 絵舞さんについては、こんな風に説明する。

「とても美人でおしとやかですが、好奇心に溢れた情熱的な子なんです」

 やはりというか、なうろぱさんも絵舞さんの美貌に見入っているのがわかった。

 いよいよ僕の番だ。嶋村さんに招かれると、なうろぱさんの前に進み出て一礼する。

「はじめまして、エドワードと申します。御主人様方からは『王子様』と呼ばれております」

「王子様、ですか? 男の娘にしては、かなり女性的な体格してますけど」

 黒のベストを盛り上げているバストを見て、そう感じたようだ。そこで嶋村さんが間に入る。

「彼は男の娘ではなく、『TSの王子様』なんです」

「あの『朝おん』の……実際に会うのは初めてです!」

 両目を大きく見開いたなうろぱさんは、口まで半開きになっていた。

 さらに嶋村さんは、僕かここで働くようになった経緯と合わせて、TSであっても男の娘と共にメイドとして立派に働いていることを強調した。持ち上げられているみたいで内心恥ずかしさもあったが、信頼を寄せているのはありがたく思える。

 なうろぱさんも嶋村さんからの話を、熱心にノートへと書き留めていく。

「一番若いのに、こんな珍しい境遇であっても仕事を務めているメイドがいるなんて、思いもしませんでした」

「彼のことは、あまり深刻に書かないでくださいね。当店としても、同情やお涙頂戴を売り物にしているわけでなく、あくまで明るく楽しい雰囲気で御主人様をお迎えしたいと考えておりますので」

「わかりました。そういう方向では取り上げないつもりです」

 嶋村さんからの要請を、なうろぱさんは請け負った。


 インタビューが終わると、嶋村さんが客に発行するポイントカードと、満点になった際のサービスなどについて、なうろぱさんに解説していった。二人から離れると、僕は休憩時間に入る。

 いつものように厨房で上堂さんから賄のサンドウィッチとコーヒーを受け取り、更衣室に移動した。椅子に腰掛けてからコーヒーを一口飲むと、鼻息に続いて独り言まで出てしまう。

「TSの王子様か……」

 思えばTSというだけでもレアケースなのに、『王子様』と呼ばれつつメイドとして働いていることは、とても奇妙なことなのだ。なうろぱさんが驚いていたのも無理はない。

 それとは別に、これほどの珍事でありながら、僕はいつの間にか『王子様』としての自信を持つようになっていた。これだって十分に奇妙なことだが、周りからもそのイメージをそつなくこなしているように見られている。

 朝おんでTSになったのは不可抗力で、誰の責任でもない。だが『王子様』は、元々他人から押し付けられたイメージだ。不本意だったはずなのに、現在の僕は名付け親の社交的女子から恨まれるほど『王子様』であることを自覚している。そりゃ利用できるところは利用したが、心底からそうなろうとまで考えていたわけじゃない。

「……矛盾、だよな」

 またも独語してしまった。TSである以上、その状況からは逃れられないと理解しているが、むしろ自分から抱え込もうとしてるんじゃないのか。

 再びコーヒーを飲むと、ほろ苦い思いが胸いっぱいに満ちていくのを実感する。


 休憩を終えて店内に復帰したら、なうろぱさんがアイスコーヒーと日替わりケーキのセットを食べているところだった。店の一番人気なメニューであり、今日はバニラクリームたっぷりのパンケーキだ。

 うっとりしたように目を細めつつ、なうろぱさんが舌鼓を打つ。

「他のメイド喫茶より……いえ、専門店にも負けないほど美味しいですね」

「ありがとうございます。当店のパティシエ兼シェフの上堂さんは、あらゆる料理の経験を積んだ方ですから」

 代わって礼を述べつつ、嶋村さんは上堂さんの腕前を褒め称えていた。

 ここまでスムーズに事が運んだのだから、取材は成功したと言える。きっとなうろぱさんも好意的な記事を書いてくれることだろう。

 和やかなうちに取材を終えて退出しようとするなうろぱさんを、嶋村さんと一緒に見送ろうとした。その時、ドアが大きく開いて新島が乗り込んでくる。

「姉貴! 会いたかったっす」

 唐突な奴の登場に、なうろぱさんが目をパチクリさせつつこちらを見る。

「あなたの弟さん?」

「いえ、違います」

 即座に否定したが、嶋村さんが含み笑いを抑えきれないでいる。

「こちらのお坊ちゃまは、王子様の男気に惚れて常連になったのですよ」

「男気ですか?」

 そこから嶋村さんがなうろぱさんに対し、僕と新島の関係について語りだす。曰く、やさぐれていた新島を、王子様である僕が体を張って更生させた。その男気に惚れ込んだ新島は僕を『姉貴』と呼んで、舎弟となった……奴が女装して人を騙していたことや、僕がキスのふりをしてショックを与えたことは省いてあるが、それら以外はほぼ事実だから、否定ができなかった。

 一旦しまったノートを取り出すと、なうろぱさんは熱心にメモる。

「最後の最後で、とっても面白い話を聞かせていただきました。これも記事に反映させたいと思います!」

 なうろぱさんはホクホクとした笑顔で店から出ていった。残された僕は、最悪のタイミングで現れた新島と、面白おかしく語ってくれた嶋村さんに対して、苛立ちを抑え込むのに苦労する羽目になった。


 仕事帰りのコンビニ前で、僕は倉石君に愚痴をこぼす。

「あいつのおかげで店の宣伝はともかく、僕について何書かれるかと思うと、気が気じゃないよ」

「同情はするけど、面白い記事になるんじゃないかな」

 他人事だと思っているのか、倉石君は笑っていた。

「これであいつ以外からも姉貴とか言われたら、もうやってられないよ。王子様って呼ばれるのも、まだ慣れてないところもあるし」

 ストローでアイスティーをすすった。カップの周りには水滴がまとわりついている。

「……今だから言うけど、君と初めて出会った時、まさに『王子様』だと思ったよ」

「えっ?」

 唐突な倉石君の言葉に、カップを持った手が固まった。

「確かに君を女だと思いこんでいたけど、なんていうか……漫画に出てくる『王子様系僕っ』がホントにいるんだって、妙に感動したんだ」

「ああ、『女子校の王子様』のイメージか」

「しかも、あの店で本当に『王子様』ってキャラをやってると知って、驚くしかなかったね」

 あの雨の日、事務室にいた倉石君が、コスを着て入ってきた僕を見て固まっていたのが思い出された。

 過去の気持ちを打ち明けてくれるなんて、倉石君はどういうつもりなんだろう。僕が愚痴ばかり言うから、励ましたいとでもいうのか。

「店で王子様をやるのは嫌じゃないんだ。ただ、姉貴とまでは言われたくないだけだ」

「わかってる。店での君はよくやってるって思う」

「慣れないのは、学校の女から王子様扱いされることさ。あれだけは仕方なくやってることで、本当の僕じゃない」

「上辺だけでも演技できるのはすごいことだよ。俺は今でも女が苦手だから、絶対できないし」

「そんなこと言って、この前は取り巻きからかばってくれたじゃないか」

「俺ができないのは、女に優しく親切にするってことだよ」

 倉石君の表情が陰った。彼からの励ましに応えようとしていたのに、いつの間にか状況がおかしくなっている。

「女だからって、誰にでも親切に優しくしてやる理由はない。あの社交的女子にそんなことしたら、つけあがって調子に乗るだけだ」

「彼女のことはよく知らないけど、あれだけ軽口叩けるのも、それはそれですごいことだし」

「あいつはともかく、心からそうしたい相手にだけ、優しくすればいいんじゃないか。僕はそう思う」

 しばらく倉石君は黙っていた。やがてコーヒーを飲んだ後、ふと笑みをこぼす。

「……だよな。君の言うとおりだ」

 励ましたり励まされたり、今夜の僕達は立場が逆転してばかりだ。だけど、やっぱり僕は倉石君との立ち話が、一日で一番楽しい時間なのだ。

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