第七十話

 朝の日差しに照らされた校舎を、僕は少し憂鬱気味に見上げた。新学期の初日というのはだいたいこんな気分になるもので、これはTSになっても変わらない。

 昇降口に入れば、前学期と同様に取り巻き達が出迎えた。昨夜もフェアリーパラダイスで顔を合わせていたというのに、彼女達の表情は一段とウキウキとしたものになっている。

「店長さんからの話を聞いて、夕べはなかなか寝付けなかったの」

「先輩が夢にまで出てくるんじゃないかって、ドキドキが止まりませんでした!」

 取り巻き達のセリフの最後には、ハートマークが付いているかのようだ。ポイントカード満点時に『お姫様抱っこ』や『ハグ』を特別にサービスしてもらえるという話を聞かされてから、それまで僕を散々なじっていたことなど、忘却の彼方へと追いやってしまったらしい。

 こうも変われるものか……あまりの早さに呆れていたが、そんな気分はお首にも出さず、いつもの『王子様』として語りかけてやる。

「僕としても、皆が喜ぶサービスができるのは嬉しいし、やはり女には乱暴なことをしたくなかったからね」

 うっとりとして聞き入る取り巻き達の瞳からは、あの新島にも通じるようなウザさが感じられた。もしかすると彼女らとあいつは、精神的な根底が相似形なのかもしれない。

 ともあれ、仕事とはいえ心底から好きでもない六人の女を、立て続けに抱き上げたりハグしなくてはならないというのは、はっきり言って拷問である。『壁ドン』の方がマシだとは思わないが、それにしたって他にアイディアはなかったのかと、嶋村さんだけでなく発案者の絵舞さんまで恨めしくなってしまう。

 取り巻き達の話が弾みすぎて、やっと自分の教室に入れたのは、始業の三分前だ。何人かに挨拶してから席に着いた時、人影が現れる。

「おはよう。取り巻きとの絆が一段と深まってるじゃない」

 社交的女子のニヤついた顔があった。夏コミケの救護室で見せた気弱さなど、微塵も感じられない態度だ。

「その様子だと、もう体は大丈夫のようだな」

「おかげさまでね。これでもあんたとには感謝してるんだから」

 その口調には『ツンデレ』よりも『悪役令嬢』としての成分が強かった。ようやくこの女も、それらの区別がつくようになってきたようだ。

 打ち上げの席で遊井名田先生から、僕と社交的女子は『ケンカ友達みたいなものなんだろう』と評されたことが思い出される。確かにこの女とは口喧嘩というか、皮肉とか当てこすりの応酬はしてきたが、友達と言えるほどの感情など抱いたことは全くない。向こうだって、僕がTSだから面白がってちょっかいかけてくるだけで、それ以外の気持ちなどないだろう。

 その社交的女子が、思わせぶりに口を開く。

「今度、あの店に行けばポイントが満点になるんだよね、私達」

「そういや、そうだったな」

 夏コミケ直前に来店した時、彼女達が『もう一回だ』とはしゃいでいたのを思い出す。

 始業時間のチャイムが流れてきた。席へ戻ろうとする前に、彼女はちらりとこちらを見る

「サービス期待してるからね、王子様」

 わざとらしく付け加えたからには、サービス相手に僕を指名するということか。だとしたら、本気で『王子様からの壁ドン』をリクエストするつもりとしか思えない。大ファンである先生が体験したことを自分もされてみたいと望むのはこの女の勝手だが、それが壁ドンという親切とは程遠い行為なのだから、物好きにもほどがある。

 それに壁ドンは一度もリクエストがなかったことだし、いずれ嶋村さんは『お姫様抱っこ』や『ハグ』に変更するかもしれない。実際に行われるのは、それが最初で最後になるだろう。

 担任が入室してきた。日直の合図で生徒全員が起立する。


 夏休みが終わって以来、若い客の来店は目に見えて減っていった。店内の雰囲気も以前のように、比較的落ち着いたものを取り戻していく。

 週末の夜、来店してきた遊井名田先生が、絵舞さんからいつものを提供されていた。ともみさんと二人組が、佳境に入った今期アニメのそれぞれについて、じっくりと感想を語り合っている。

 少し前に入店していた倉石君とソシャゲのイベント攻略について話をしていたら、勢いよくドアを開けて新島が入ってきた。奴が来たのは、夏コミケの打ち上げ以来である。

「会いたかったっす、姉貴」

「お帰りなさいませ、お坊ちゃま」

 極めて事務的に応対したにもかかわらず、新島は歓喜の笑顔だ。しかも奴は倉石君の姿を認めると、駆け寄って一礼する。

「倉石兄貴もお久しぶりです!」

「や、やあ……」

 いきなり『兄貴』と呼ばれて、倉石君も面食らっているのがわかった。落ち着いていたはずの店内の空気が、新島の登場で一気に騒々しくなってしまう。

 とうとうこいつも常連になってしまいやがったのか……苦々しい気分を押し隠して、新島の相手を務める。

「この『王子様からの壁ドン』って、姉貴がやるんですよね?」

 手にしたポイントカードと、メニューに付属した『満点時のサービス一覧表』を新島が見比べていた。

「そうですが、まだ一度もサービスしたことはございません」

「なんで脅しみたいなことするんですか? しかも女だけってのが、ますますわかんないんですけど」

 まだ中学生の新島からすれば、そういった疑問が浮かぶのは当然のことだろう。このサービスが成立するまでの経緯を簡潔に説明してやったが、相手は納得がいかない顔をしている。

「女って、そんなことされて嬉しいんですか?」

「おそらくスリルを味わいたいのではないでしょうか。わたくしにもよくわかりませんが」

 スリルと言えば、かつては新島も女装して人を騙していた時は、そんな感情を味わっていたはずだ。男女の差はあれ、そういうものを求める気持ちは誰にでもあるのだろう。そんなことを考えていた時、再び店のドアが開く。

「ただいま~」

 社交的女子と友人AとBがついに姿を現した。店長の嶋村さんが出迎えに回る。

「お帰りなさいませ、お嬢様方。今回でポイント満点ですね」

「それが楽しみで来たんです」

「ついに私達もサービスしてもらえるんですね」

 早くも友人AとBは浮かれていた。社交的女子はというと、すぐに先生の席まで赴いて、夏コミケの救護室までお見舞いに来てくれたことを深甚に感謝していた。先生も彼女が無事に回復していたことで、喜びを顕にしている。

 席に着いた社交的女子達のポイントカードに、嶋村さんがスタンプを押していく。

「おめでとうございます。では、ご希望のサービスをお聞かせください」

「ともみさんとのツーショットがいいです」

「私は絵舞さんでお願いします」

 Aはともみさんからゲームのアドバイスを受けているし、Bは絵舞さんに熱を上げているから、順当なリクエストだ。早速ともみさんが店のデジカメを持ってきて、セッティングを始める。

 その間、社交的女子は少し思いつめたような顔をしていた。改めて嶋村さんからリクエストを問われると、おもむろに口を開く。

「……『王子様からの壁ドン』をお願いします」

「まあ、本当によろしいのですか?」

 わずかに意外そうな顔を嶋村さんがしている。僕としても、あの女の以前の様子から、そう言い出すのではないかと予想はしていたが、どうやら本気だったようだ。

「実を言いますと、あたしが自信を持って取り入れた『壁ドン』は、リクエストされた方は一人もおられませんでした。あまりにも人気がなさすぎたので、別のサービスに変更しようかと考えていたところなんですよ」

「駄目なんですか?」

「まだ正式に決定はしておりません。お嬢様がお望みならば、サービスいたします」

「はい、お願いします」

 嶋村さんにうなずいてから、社交的女子はちらりと僕を見た。その表情にはいつもの勝ち気さはあったが、どこか無理しているような気配もあるように思える。

 さらに彼女は再び先生の元へと向かい、猫かぶりな態度で懇願する。

「私も先生のファンですから、同じ経験をしてみたいんです。お許しいただけますか?」

「構わないけど、ただし王子様の壁ドンは迫力あるからね」

 先生としても、そんなことで許可を求められても困るだろうに、それでも律儀な対応をしていた。


 嬉々とした雰囲気の中、ともみさんはAと、絵舞さんはBと一緒に、それぞれ写真に収まっていった。

 控えていた僕に、新島が真顔で僕に尋ねてくる。

「姉貴、本当に壁ドンするんですか?」

「お嬢様のリクエストですから、お応えしなくてはなりません」

 隣の倉石君は無言だ。彼が壁ドンに一切興味のないことはわかっている。それでも、初めてそれを目の当たりにするとなれば、どんな風に行われるかと考えているのは間違いない。

「……やはりオレ達には見果てぬ夢なのか」

「男に生まれたことが、これほど恨めしいとは~」

 よっしーさんとオカチャンさんは呆然としている。二人組の心の中では、壁ドンへの執念がいまだくすぶっていたのだ。女々しいとしか言いようがない。


 いよいよ僕の出番が来た。こころなしか、店内には張り詰めた空気が漂い始める。

 社交的女子が緊張した面持ちで、壁を背にして立つ。彼女は先生とほぼ同じ背丈なので、当時と同様に大柄な僕が覆いかぶさるようにして、右手で壁をドンと叩く。

「これでいかがですか?」

「それだけ? もっと強く攻めてきたらどうなの!?」

 負け惜しみにも聞こえるが、やはり言葉責めも必要らしい。かつて先生を口説いた時を思い返すと、彼女の両目を見つめてから顔をグイと寄せていく。

 社交的女子が目を見開いて、顔をひきつらせた。直後、ドスの利いた声でささやく。


「お嬢様のコンスタンティノープルは、たった今、陥落いたしました」


「……はぁっ、ふあぁぁぁ~!」

 先生ほど調子外れではないが、社交的女子も小さな悲鳴を上げて、その場に崩れていった。向こうからの挑発とはいえ、さすがにやりすぎたかもしれない。腰を下ろして、社交的女子の肩に手を置く。

「大丈夫ですか?」

 すぐに相手は答えなかった。深呼吸を繰り返した後、頭を上げた社交的女子の表情には、今まで見せたことがないほどの悔しげな色が浮かび上がっている。

「あんたは自分が『王子様』であることを自覚して、それを最大限の武器にしてる……私が許せないのはそこよ!」

「わたくしを『王子様』と呼んだのは、あなたが最初ですよ。お嬢様」

 言い返した僕に、おもむろに社交的女子は力の抜けた笑顔を作ってから、ようやく立ち上がる。

「これで思い残すことはなくなった……ありがとね」

 彼女がちょこんと頭を下げたら、店内にいた人達から拍手が上がった。


 プリントアウトされた写真を手にして友人AとBはすっかり満足していた。社交的女子は憑き物が落ちたような表情で椅子に背もたれつつ、ストローでアイスティーをすすっている。

 一連のサービスが終わってからも、新島は首を傾げていた。

「迫力はありましたけど……何が楽しいのか、やっぱりわかんないです」

「お坊ちゃまの感覚は正常です」

 かつて女装をしていたとはいえ、こいつがマゾヒストではないのはわかった。

「彼女、あまり嬉しそうでもないけど……あえて君に壁ドンしてもらいたかったのかな?」

 初めて倉石君が、壁ドンについての感想を漏らす。

「お嬢様は以前にも『先生が体験したのだから、自分も挑戦してみたい』と言っておられたのです」

「それだけじゃないような気もするんだ」

「と言いますと?」

 少し間を開けてから、倉石君が答える。

「何ていうか、夏コミケでのお礼じゃないかな。彼女なりの」

 なるほど、口が悪いあの女からのひねくれた恩返しだとすれば、しっくり来るものがあった。


「初めて壁ドンをお願いした時は、切羽詰まった気持ちからだったけど、こうして第三者として眺めてみたら、喜劇以外の何物でもないね」

 サービス第一号の先生が自嘲気味になって、僕に感想を漏らしてくれた。

「今回のリクエストは、彼女なりの夏コミケでのお礼だと考えております」

「お礼、ね……本当にそれだけだと思ってる?」

 先生が不審げな目を向けてきた。自分としても、倉石君の意見には賛成だったからそのまま口にしたのだが、そう見られる心当たりがない。

「何かおかしなことを言ってしまいましたか?」

「いや、いいんだ。君の心には、すでに別のものが築き上げられていたってことなんだね」

 何が築かれていたのか……そこまでは、先生も教えてはくれなかった。狐につままれたような気分のまま、フェアリーパラダイスの夜は更けていく。

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