第二節 熱気孕む風

第六十二話

 まだ午前だというのに、陽に灼けたアスファルトは熱かった。全身がじわじわと汗ばんでいく。

 ようやく梅雨が開けた週末、僕は倉石君と肩を並べて、遊井名田先生の仕事場へ向かうべく、高級住宅地を貫く街路を歩いていた。

 この辺りに足を踏み入れたのは、先生を手伝うためティアに参加した日以来、二度目のことだ。その時は珍しげに周りを眺めてしまったものだが、初めて訪れる倉石君も、以前の僕と同様な視線を放っている。

 やがて先生の仕事場があるマンションの前にたどり着く。やはりというか、倉石君も感心したような目で建物全体を見上げてしまう。

 僕達がここへ来たのは、昨夜ともみさんから『ヴァンタンさんのコスが完成して、仕事場に届いた』という連絡を受けてのことだ。同時にともみさんの衣装も届けられたので、一緒に試着しようという話になった。合わせて夏コミケ当日の打ち合わせをすることにもなり、僕が倉石君を案内する形でここへ連れてきたのだ。

 さらに倉石君はともみさんから、『王子様だって、一番最初はキミにコスプレを見せたいんだよ』と言われて、ときめきを隠そうともしなかった。今朝、最寄り駅の前で落ち合った時から、すでに彼の頬は赤らんでいたが、それは暑さのせいだけではないだろう。

 仕事場の入り口にあるインターホンのボタンを押す。ややあって返ってきたのは、先生ではなくともみさんの声だ。

「はーい、王子様かい?」

「はい、倉石君も一緒です」

「うん、待ってて」

 ドアが内側から開いた時、僕達は軽くあっけにとられた。現れたともみさんが、格闘ゲームの男の娘キャラのコスへと、すでに着替えていたからである。

「待ちきれなくて、三十分早く来てしまったんだ」

 頭に手を当てて笑うともみさんは、さすがにメイクまではしていなかったが、衣装だけでもキャラの雰囲気がかなり出ている。

 室内に入ると冷房がよく効いており、すぐに汗が引いていく。フローリングの部屋にいた先生が、『いらっしゃい』と言って出迎えてくれた。

 今日の先生には、さっぱりとした気配があった。先日来店した時は、夏コミケ用の原稿が未完成だったこともあって、表情とかに疲労感がにじみ出ていたものだ。

「先生、原稿の締切には間に合ったんですか?」

「おかげさまでね。昨日、原稿とイラストのデータ一式を印刷所に送ったから、やっと肩の荷が下りた気分だよ」

 今回の小説は、以前にティアで販売した『悪役令嬢もの』の続編であり、前作の表紙や挿絵を描いてくれたイラストレーターが、再度担当してくれたそうだ。本当にありがたいことだと、先生が晴れやかな笑顔で語ってくれる。

 床には開封された段ボール箱が置いてあり、その中に僕が着る衣装が入っているようだ。早速、僕と倉石君は中身を取り出して確認する。

「ホントに▽▽のコスそのものだ」

「うん、デザインとかカラーリングも良く出来てる」

 僕がコスプレするのは、▽▽が最終段階にレベルアップした時の姿だ。初期段階と比べて派手な色使いとなり、細かな装飾も増えていたりする。それらが実際に着る衣装として作製されており、ヴァンタンさんの実力がうかがい知れた。

「二人とも、感心するのは試着してからにしたらどうだい?」

 ともみさんがニヤッとしていた。先生も笑いをこぼす。

 隣の小部屋を借りて、コスを試着することになった。ともみさんが着替えを手伝ってくれる。

「どっかきついトコはない?」

「大丈夫です。とてもピッタリですね」

 上着とスカートを身に着け、靴を履いてウィッグを被ってから、軽く体を動かしてみる。ヴァンタンさんの作ってくれたコスは、確かに僕の体によくフィットしていた。

「それじゃ倉石君に初披露と行こうじゃないか」

 ともみさんが引き戸を開けてくれた。隣の部屋へと歩み出ると、倉石君と先生が僕の姿を見て、感心しきった表情になる。

「……どうかな?」

 遠慮がちに倉石君へと尋ねたら、彼は何度も瞬きしてから、やや興奮気味にうなずく。

「うん、すごくいい……よく似合ってるよ」

「そうだね、ヴァンタンさんが作っただけあって細部までよく出来てるし、スタイルがいい君が着るから、本当にコスプレ映えしてるね」

 先生も僕の全身を、まばゆ気な眼差しで眺めていた。

 さらにともみさんが、全身が映せる大きさの姿見を移動させてきた。鏡に映し出された自分の姿をじっくりと観察してみる。

 ゲームの画面から、▽▽がそのまま抜け出てきた……とまでは言えないけど、何度も倉石君と一緒に眺めたキャラと同じコスをまとった僕は、まるで自分が自分じゃなくなったような気さえしてくる。そんなことまで思ってしまうくらい、コスそのものの再現度の高さが感じられた。

 無言のままで鏡の前にたたずんでいると、鏡面越しにともみさんが含み笑いを浮かべる。

「今度こそ、『これが僕?』って言わないのかい?」

「同じこと、何度も言いませんよ」

「次はポーズ取ってみなよ」

 促されて、体を倉石君の方へと向け直す。▽▽の初登場時のポーズを構えてから、キャラになりきって名乗りを上げる。

「初めまして、▽▽です。よろしくお願いします!」

「……」

 倉石君は目を見開いたままだ。しばらくの間そうしているものだから、ともみさんがツッコミを入れる。

「キミがチェックする番だよ。ポーズとセリフは間違ってない?」

「あ、あの……完璧に再現してて、最高です!」

 手放しで称賛する倉石君に、流石に気恥ずかしくなってしまった。ともみさんと先生が吹き出してしまったので、余計に恐縮する。

 その後も、ネットでよく知られている▽▽のセリフを交えて、様々なポーズをしてみた。どれを見ても倉石君は、ポジティブな感想だけを言ってくれる。彼の推しキャラである▽▽のイメージを損ねないよう、僕なりに練習を積み重ねてきたわけだが、ここまで褒めてくれるなら大分自信が湧いてきた。

 ともみさんの方は慣れたもので、鏡を見ながら自分でポーズの調整をしていた。僕自身は、その格闘ゲームをプレイしたことはなかったけど、配信動画で視聴したことはある。その男の娘キャラの特徴的な身振りやポーズ等を、ともみさんはよく捉えているように思えた。

 一通り試着とリハーサルを終えて、僕とともみさんは元の服に着替えた。姿見を片付け、テーブルと椅子を設置すると、先生がよく冷えたペットボトル入りのミネラルウォーターを、皆に渡してくれる。それを飲みつつ、僕達は夏コミケ当日の打ち合わせを行う。


 今回、先生のサークル『遊井名田本舗』には、ともみさんと僕、そして倉石君が所属することになった。ちなみに夏コミケは八月において二日間に渡り開催されるが、我々が参加するのは二日目で、会場はティアと同じ場所である。


・四人は九時までに、サークル参加で会場入りする。


・ともみさんが『更衣室先行入場チケット』を利用して、先にコスへ着替える。

(このチケットを利用すると、九時三十分から更衣室が利用できるが、十一時までは指定された場所以外への移動ができない)


・僕と倉石君は先生を手伝いつつサークルスペースの準備をして、十時三十分から入場してくる参加者への対応をする。


・十一時にともみさんはサークルスペースへ移動して、今度は僕がコスに着替える。


・以後、ともみさんと僕は交互に先生の売り子を手伝いつつ、会場内を歩き回る。


・倉石君は僕がコスプレしている間、行動を共にする。


・一六時を過ぎたら、ともみさんと僕は私服に着替える。倉石君は先生と共にサークルスペースの撤収作業を始める。


・十七時を目処に、全員で会場を後にする。


 先生から当日の流れについて説明を受けた後、引き続きともみさんから倉石君に対し、当日の具体的な役割についての解説がある。

「王子様は初参加だし、不慣れな部分もある。そこでキミは彼のそばにいて、日焼けや熱中症への対策と体調管理に気を配ってほしい」

「俺は徳田君の世話をすればいいとして、ともみさんの方はいいんですか?」

「ボクは慣れてるし、普段から鍛えてるから。まあ余裕があったら、こっちも気遣ってくれるとありがたいけど、あくまでキミは王子様のサポートがメインだからね」

「わかりました」

 生真面目な表情を作る倉石君に、ともみさんはポンと肩をたたいた。彼の責任感の強さに、一段と信頼を寄せているのだろう。

 さらにともみさんが夏コミケにおける暑さ対策を念入りにアドバイスする。

「晴れた場合、外の日差しが強いから、日焼け止めは必要だね。場内は天気に関係なく蒸し暑いから、なるべく涼しい服を着て、扇子やうちわにポータブル扇風機とか、瞬間冷却剤やスプレーみたいな冷却グッズも持参しておくこと。それと水分についてはサークルでも用意するけど、王子様も倉石君も予備の飲み物を持ってくるといいかもね」

 今になって気づいたが、部屋の片隅にキャスター付きのクーラーボックスがあった。割と大きめなサイズだから、ペットボトル等も大量に入るはずだ。でも、これが必要になるくらい、夏コミケの会場は猛暑であるということなのだろうか。

 ちなみに倉石君は去年の夏コミケに参加した際、あまりの暑さに体調を崩す寸前までいったという。

「あるサークルで同人誌ほんを買ったら、塩味のタブレットをプレゼントされて、それ舐めたらなんとか回復できました」

「それはいいね。うちのサークルでも用意しておくよ」

 先生は頷いてから、ミネラルウォーターを一口含んだ。

 次に話題となったのは、夏コミケにおける場内での『におい』についてだ。先生とともみさんが口を揃えて言うには、汗とかによる体臭だけでなく、衣服から漂う生乾きの臭いも混じり合って、耐え難い悪臭がしてくることがあるらしい。

「臭いがキツイからって、買いに来てくれた人に鼻をつまんで相手をするわけにはいかないから、困りものだよね」

 先生が眉をひそめていた。長年手伝っているともみさんだけでなく、倉石君まで頷いているところを見ると、よほどの状況なのだろう。

「暑さも大変だけど、臭いで気分が悪くなる場合だってあるかもしれない。どっちにしたって、我慢できなくなったら早めに対処すること。いいね?」

 ともみさんは忠告してくれたが、まだ参加したことのない僕にとっては、どれほど臭いのかが想像もつかなくて、不安になってくる。

 終わりの方で、会場から撤収した後の話が出た。なんと夜はフェアリーパラダイスを貸し切りにして、サークルの打ち上げを行うとのことだ。これは店長である嶋村さんからの厚意によるものだという。

「上堂さんのスイーツは美味しいですけど、他の料理も作れるんですか?」

「あの人はパティシエじゃなくて、元々はコックだって聞いてるから、むしろそっちが得意なんじゃないかな」

 ともみさんもそれ以上は知らないらしい。僕だって上堂さんと話す機会は少ないし、どんな過去があるのかすらわからないままである。でも上堂さんが作るスイーツは評判が高くて、それ目当てで来店する客もいることだし、ただのバイトである僕は感謝だけしていればいいはずだ。

「当日までの準備だけでなく、体調は整えておいてね。楽しいはずのコミケで、体壊してしまったら、元も子もないんだから」

 先生から締めくくりの言葉を頂いて、打ち合わせは終了した。

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