第四十七話

 打ち上げの場所は、先生の仕事場の近所にあった、イタリアンのレストランだ。

 今夜の僕は、フェアリーパラダイスの特別な客である先生を手伝うことと引き換えに、嶋村さんから休暇をもらっていた。ともみさんは夕方には用事が終わっていると言っていたから、今頃は絵舞さんと二人で店の仕事をしていることだろう。

 数々の料理を前に、先生はビールのジョッキを、僕はコーラのグラスを持ち、乾杯する。

 ティアの会場にいた時は、先生が用意していた菓子と、常連の二人が差し入れた飲むゼリーしか口にできなかった。とことん空腹だった僕は、食欲のおもむくままにチキンやパスタを口へと運ぶ。先生もグラタンやサラダをつまみにして、ビールで流し込んでいる。

 僕と先生は、今日のティアに参加した感想を話し合った。初めて同人誌即売会に参加した僕からの素朴な感想を、先生が微笑ましく聞いてくれる。

「……結局、僕は何も買わなかったんですけど、あんなに種類があったら、何買えばいいのかわからなくて」

「事前にカタログとかチェックしておいて、目当てのサークルから買うようにすればいいよ。前情報もないまま、掘り出し物を見つけるのも楽しいけどね」

 ビールを飲み干した先生は、次にワインを注文した。デカンタに入った赤ワインがテーブルに届く。グラスに注いだワインを一口飲むと、先生が満足そうに一息つく。

 今は打ち上げの席だし、気も緩んでいるのか、先生は何度もワイングラスを口にした。二杯目を注ぐと、少し酔いの回った目で、僕を見つめる。

「……そろそろ、話してもいいかな」

「何をですか?」

「初めて君を見た時、リアルのTSだって見抜いた理由よ」

 その後に先生はスマホを使ったで、『いずれ機会があったら、話してあげる』と約束していた。そして今がその時だと、決意したようだ。

「ぜひ聞かせてください」

 僕は持っていたフォークとグラスを置くと、姿勢を直した。先生はワインを少し飲んでから、天井へと視線を向ける。

「実は、TSの人と出会ったのは、君で二人目なんだよね」

「前にも会ったことがあるんですね」

「今から八年前、その人は、私が高校時代の一年先輩だったのよ……」

 先生の話に、さらに僕は耳を傾ける。


 その先輩は僕と同様、朝おんでTSになった人だが、顔などは今の僕にそっくりというわけでもなく、背丈や仕草などに似たようなものがあったと先生は言う。

 僕と同様、先輩も転校せず、そのまま学校に通い続けていた。違うのは、僕ほど体型の変化が起こらなかったらしく、男子の制服のままでいたことだった。とは言っても、やはり男だった時とは雰囲気が違って見えたらしい。

「元々先輩は、行動とかに洗練されたところがあってね、なんだか『男装の麗人』みたいな感じがあったよ」

「もしかして……その人も女子から『王子様』とか、呼ばれたりしたんですか?」

「まあね。面と向かってそう言った人は、あまりいなかったみたいだけど」

 そこからの展開は、僕にも読めた。きっとその人も、女子からラブレターを送られたり、交際を申し込まれたり、さらには取り巻きまで現れたりしたはずだ。それをたずねると、先生が苦笑しながら肯定する。

「その通り。君もそうだろうから、わかったんだよね」

「はい。その人には同情します」

「でも私だって、その人に手紙を贈ろうとしてたんだよ」

 さりげない言葉に、僕ははっとする。


「私は小学校の頃からオタクやってて、好きになるのもアニメやゲームのキャラばかりだった。そんな私がリアルの男性……というか、現実に生きてる人を初めて好きになったのが、その先輩だったわけ」

 生まれて初めて恋心を抱いた先生は、先輩への思いを手紙に記し、ラブレターとして差し出そうとした。卒業式を間近に控えた頃、いつもより早く登校して、先輩の下足箱を開いた先生が見たものは、すでに何通も入っていた手紙の束だった。そこで先生は怖気づいてしまったのだという。

「こんないっぱい送られてくるなら、いまさら私が入れたところで、読んでくれないよね……ビビった私は、手紙を持ったまま逃げ帰ったの」

 再び先生はワイングラスを口に持っていった。

 それでも先生は勇気を奮い直し、もう一度手紙を差し出そうとした。けれど、その時も先輩の下足箱には、前よりも多くの手紙が入っていて、またしても先生は諦めてしまう。

 やがて卒業式が訪れた。取り巻き達に囲まれて笑顔を振りまいている先輩を、先生は離れた所から、出せなかったラブレターを抱えたまま、眺めることしかできなかった。

 残されたラブレターだが、そのまま捨ててしまえばいいものを、先生は何をとち狂ったのか、封を開いて読み返してしまったらしい。

「それがひどい悪文でね。誤字は多いし、感情ばかり先走って、我ながら何が言いたいのかわからなくて……こんなのを送ってたら、相手にも迷惑だったろうなって考えちゃって、部屋の中で身悶えしたものよ」

 先生の頬が赤くなっているのは、酔っているせいだけではないようだ。

「君が受け取った手紙も、そういう『悪文』ばかりだったんじゃない?」

 デカンタに残っていたワインをすべてグラスにつぐと、先生が自嘲気味にたずねた。

「そうですね。ほとんどはそんな感じです」

「でも、その子達はちゃんと差し出すことができた。当時の私には、それだけの勇気もなかった……いくら他人からの手紙が多くても、そこで諦めずに送っていればよかったって、今でも後悔してる」

 持っていたワイングラスに、先生が視線を落とす。

「もし、その人に手紙を出していたら、付き合うことができたと思いますか?」

 今度は僕から質問してみた。これは先生個人にというより、僕に『悪文』な手紙を送ってきた女子達が、何を考えていたのかを知りたかったからでもある。

 まさか本当に僕と交際したいと思っていたんだろうか……だが返ってきたのは、意外な言葉だ。

「最初からそんなつもりはなかった。ただ、自分の思いを伝えたい……それだけよ」

「それだけ、ですか?」

「うん。私を含めて恋をした女は、相手への思いで胸が張り裂けそうになる。そんな状況が息苦しくて、抑えきれない感情を吐露したいから、ラブレターを書いてしまう。だから、感情だけが先走る『悪文』になっちゃうのよね」

「そんなものを送りつけたら、迷惑になると思っていても……ですか?」

「まあそれは、私が自分の手紙を読み返してしまったからで、書いていた時は相手の迷惑なんか考えてもいなかった。ひたすら、自分の思いを伝えることだけが目的だったから」

 先生がそう考えていたなら、僕に手紙を書いた女子達も、同様に思っていたのかも知れない。要するに、送られる側の気持ちなんて、どうでもいいということだろうか。

 女子達に対する不信感が芽生えた時、先生が上目遣いにこっちを見る。

「ところで君は、もらった手紙をその場で捨てたりしてないだろうね?」

「一応持ち帰って目は通しますが、返事を書いたことはありません」

 姿勢を直した先生がニヤッとした。

「よかった。最低限の礼儀だけはわきまえてるみたいで、安心したよ」

「返事を出さなくても?」

「あれば嬉しいけど、なくたって構わない。手紙を出した子にとって大事なのは、自分の思いをちゃんと受け止めてくれること。読みもせずに捨てられたら、今までの自分の苦しさは何だったのかって、暗澹たる気持ちになるだろうね」

「本当にそれで……持ち帰るだけで、いいんですか?」

 ワインをすすっていた先生に、僕は念を押してみた。

「それでいいの。君が迷惑に思うのもわかるけど、彼女達は抑えきれない自分の思いを吐き出すことで、苦しい恋心にピリオドや終止符を打ちたくて、そういう拙い手紙を差し出すわけだから、受け取ってさえくれれば思いは昇華するってものよ」

「なるほど、それでけりが付くと」

「ええ。きっと先輩も、君と同じく迷惑に感じてても、最低限の礼儀は払う人だったんだろうね。そんな人だからこそ、ますます手紙が来てしまったんだって、今だから思う」

 グラスの底に残っていたワインを先生はあおった。

 僕も残りのコーラを飲み干す。


 こうして打ち上げはお開きとなった。

 レストランを出る前に先生は、今日の報酬として同人誌を一冊プレゼントしてくれた。その他に『謝礼』と書かれた封筒を渡してくる。後で中を確認すると、僕がフェアリーパラダイスで一日働く分の給料よりも大きい金額の現金が入っていた。バイトをしているとはいえ、まだまだ貧乏な僕には貴重な臨時収入である。


 夜の帰り道で、今日一日のことを振り返ってみる。

 初めて参加した同人誌即売会……ティアのことは、楽しい思い出の方が多かった。だけどやっぱり僕にとって一番印象的だったのは、TSにまつわる先生のほろ苦い初恋の話だった。

 今まで先生がもったいぶっていたのも、酔った勢いでなければ言えなかった……ということなのだろう。

 おかげで僕も、自分に手紙を送ってきた女子達の心情に思いをはせることができた。今の僕は誰かと交際するつもりはなかったから、彼女達の気持ちが全く理解できなかった。だけど先生の話を通じて、ようやくわかりかけてきた気がする。

 となると、何度も手紙を書いてきた上に、ついには取り巻きになってしまった親衛隊と突撃隊の女子達は、一体何なんだ……何故か、今日のこととは関係ない事柄にまで考えが及んでしまう。

 彼女達も何らかの満足が得られれば、僕の元から去っていくだろうとは思うけど、それが何なのかは見当もつかないし、もしかすると卒業するまでつきまとってくるかも知れない。手紙を送るだけで満足した女子達が穏健派なら、まさに彼女達は過激派だとしか思えなかった。

 彼女達のことをどう思うかと、先生にたずねてみたい気がした。だけど先生は笑いながら、こう答えるに違いない。

「取り巻きというのは、私にはよくわからないけど、君の同級生の女子なら、わかるんじゃないかな」

 もちろん社交的女子のことだ。ある意味、あの女も先生に対しては取り巻きみたいになりつつあるのだから、同類のことは同類に聞けと言うだろう。


 数日後の朝、登校してきた僕は、ある女子の様子に気がつく。同学年で別クラスの彼女は、僕の下足箱の前に立ち、その蓋を開けるかどうか、迷っているように見える。

 今までは僕が登校する前にラブレターが入っていたものだが、今まさに差し出そうとする場面に出くわしたのは初めてだ。近づいている僕に気づかない彼女は、震える指を蓋にかけようとして、そのまま止まってしまう。

 早く入れたらいいのに……じれったさを感じつつ、穏やかに声をかける。

「おはよう」

 驚いた彼女は、瞬時に顔を赤らめ、そのままうつむいてしまった。震え声で返事が来る。

「……お、おはよう」

「僕の下足箱に、何か用があるのかい?」

「いえ、その……」

 地味な雰囲気のある彼女は、ボソボソとつぶやいている。

「まさか、僕の上履に興味あるわけじゃないだろう」

 ちょっとからかうように言ったら、相手は慌てて首を左右に振った。

「ち、違います……ただ、これを!」

 やっと彼女が、ポケットから取り出した手紙を差し出してきた。わかった、と言ってから僕は受け取り、バッグにしまう。

 まだ彼女は何か言いたいようだ。一呼吸置くと、かすれたような声を出す。

「あの……返事は、要りませんから」

「こういう手紙をもらっても、僕は一度も返事を書いたことはない」

「……そうですか」

 わずかに失望したような響きがあった。

「ただ、送ってくれた人には感謝はしてる。もちろん、君にもね。ありがとう」

 笑顔を作ると、彼女はホッとしたように表情を緩めた。そして一礼すると、僕の前から去っていく。

 ようやく靴を履き替えていると、例によって例のごとく、社交的女子がニヤニヤしつつ姿を現す。

「ま~た取り巻き増やして、ハーレムを拡張するつもり?」

「あの子達の手紙は、取り巻きの志願書じゃないっての」

 お前自身が先生の取り巻きになりたいくせに……僕の内心に気づかぬ彼女は、わざわざ自分から先生の話題を持ち出す。

「ところで先生は、いつ店に来るの? 早く感想伝えたいんだけど」

「前にも言っただろう。店としては、いつ来てもいいように準備はしてるけど、来るかどうかは先生次第だって」

「あんたは先生のお手伝いするくらい信頼されてるのに、そういうこともわからないわけ?」

 面と向かって、ここまで役立たず扱いされると、流石にキレそうになった。だがその瞬間、以前にともみさんや絵舞さんと交わした会話の内容が思い浮かぶ。


「それにしても、『相手を喜ばせるのが詐欺の始まり』で、『相手を怒らせることが信頼に繋がる』というのは、なんだか逆説的ですね」


 絵舞さんがつぶやいていた言葉から、妙案が脳裏にひらめく。わざとらしく間を置いてから、社交的女子に耳打ちする。

「ティアのあった日、お前が帰った後で先生が、お前のことを口にしてたぞ」

「マジ!? 何を言ってたわけ?」

 早速食いついてきた彼女に、こうささやく。

「先生は『あの子が来るのを楽しみにしてた』と言ってた。そこまでお前を認めてるらしいな」

「ホントに先生が言ってくれたの? あんたのアドリブじゃなくて?」

 かつて『王子様ゲーム』のあった日に、僕がでっち上げたストーカー云々の話を思い出したのか、相手は半信半疑だった。さらに僕は、口からでまかせを言う。

「先生だって、ファンと言うか読者からの感想は知りたいんだ。お前みたいに、直接感想を話してくれる読者はありがたいんだってさ」

「そっか、先生がそんなに私を……」

 社交的女子の表情が今にも崩れ落ちそうだ。ここまで来れば、彼女も僕の言ってることを信用したに違いない。

 この女には、今までラブレターや王子様の件で散々バカにされてきた。だがこれからは、先生のファンであることを利用して、せいぜいおだてあげてから、こっちが得する方向へと持っていこう……そういう策略を立てた僕は、浮かれつつある社交的女子を、冷ややかな目で見つめるのであった。

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