第十一話
僕が嶋村さんという女性によって引きずり込まれたのは、公園の目前にあった雑居ビルだ。エレベーターで最上階まで行くと、通路奥の扉に、『男の娘メイド喫茶(はぁと)フェアリーパラダイス』と書かれた看板が掲げてあった。その下には『CLOSED』というパネルが下げられている、
彼女は僕の手を引いたまま、ドアを開けて中に入ると、店の奥に向かって声をかける。
「只今戻りました」
ややあって厨房の方から、白衣のコック姿をした中年の男性が現れる。分厚い眼鏡をかけたその人は、顎が大きく、いかつい体格をしていた。彼女を見るなり、ボソッとした声を出す。
「お帰りなさい、店長」
「今から面接するの。コーヒー二つ、お願いします」
うなずいたコックが奥へ戻る。いくら男の娘メイド喫茶だからって、裏方の仕事をする人まで男の娘というわけではないらしい。
まだ開店前の店内は、椅子が逆さにテーブルへ乗せられていた。ファミレスみたいな四人用と二人用の席以外にも、壁際には仕切りで分けられた一人用の席がいくつかあり、全部で二十人くらいが入れるほどの広さだ。
店長と呼びかけられた彼女は、近くにあった二人用の席から椅子を下ろすと、僕を座らせてから対面に腰かける。
「ここがあたしの店よ。いい感じでしょう?」
シンプルで淡い色合いをした内装の室内は清潔感があり、飾り付けも落ち着いた雰囲気だ。何の前情報もなくここへ入ったら、それが男の娘の働くメイド喫茶だってことは、僕だけでなく誰もわからないかも知れない。
ともかく、ここまで連れてきたということは、嶋村さんは本気で僕をメイドとしてスカウトしたいようだ。男の娘ではなくTSだとわかっているのに、一体どういうつもりなんだろう。
「実を言うと、あなたがハンバーガーショップの裏口から出てきたところを偶然見かけてから、ずっと後を追ってたのよ」
「……そうだったんですか」
不採用を告げられて落ち込んでいた時から見られてたんだ。その後はどこをほっつき歩いていたのかも覚えてないから、尾行されていたことにも気づかなかった。
嶋村さんがわずかに苦笑いする。
「あなたは背が高くてバストもあるけど、スカート姿での歩き方がどこかぎこちなかったし、きっと胸も詰め物だから、男の娘だと思いこんでしまったの」
「実は朝おんしてから、まだ一ヶ月も経ってないので」
胸のことは別として、自分では大分スカートに慣れたつもりでも、見る人が見ればわかるものらしい。
姿勢を正すと嶋村さんは、僕へと真っ直ぐな眼差しを向けた。こうしてじっくり見てみると、整った顔立ちが印象的な、大人の美人だと思えてくる。
「改めてお願いします。この店で一緒に働かない? 履歴書を持ってたってことは、あなたも働く意欲そのものはあるんでしょう?」
「そりゃありますけど、さっきのハンバーガーショップで落とされた理由が……」
説明すると、嶋村さんが眉根を寄せる。
「そんなひどい話が……朝おんが感染しないのは医学的エビデンスではっきりしてるのに、それを信用しないで、ありもしない噂で不採用だなんて、そんな店は雇われなくて正解よ」
「僕も、そんな偏見があったなんて知らなくて」
「もしそんな店で働いたら、あなたは給料以上の仕事まで押し付けられて、体を壊したかも知れないし、店全体でミスが発覚したら、あなた一人に責任押し付けて、トカゲの尻尾切りみたいなことまでするはずよ。そういうのをブラック企業って言うんだから!」
「……そうですよね」
僕が今まで感じていた不条理を、まるで我が事のように怒ってくれる人がいて、安堵した思いが芽生えてくる。そこへコックがホットコーヒーを持ってきた。快い香りがテーブルの周りに漂う。
嶋村さんはコーヒーをブラックのまま一口飲むと、力強さのある微笑みを浮かべる。
「でも心配しないで。あたしはそんな噂なんて信じてないし、この店はホワイト企業だからスタッフも同様だし、お客様だってわかってくれるはず。だから、あなたも安心して働けるわ」
すでに採用を決めたような口ぶりには笑うしかなかったけど、それでも嬉しいという気持ちが湧くのを抑えられない。
シュガーとミルクを入れて飲んだコーヒーは、とても美味しい。今までインスタントやボトルのコーヒーしか飲んだことのない僕は、軽く感動してしまった。
リラックスしてきた僕は、今度は自分から質問してみる。
「どうして僕なんですか? 僕はTSですから、やっぱり男の娘とは違うと思います」
「そのことなんだけど、元々イメージっていうかコンセプトがあったの」
カップをソーサーに置くと、嶋村さんはこの店の状況について話し始める。
十年前から店長として店を経営してきた嶋村さんは、様々なタイプの男の娘メイドを雇ってきたのだという。この店で働くメイドの個性というかキャラを立てる事によって、お客様に親しみを持たせたりファンになってもらうことで、リピーターを増やすのが目的だった。
現在、店には二人の男の娘メイドがいる。一人は、明るいムードメーカータイプ。もう一人は、清楚で女以上に女らしいタイプ。そんな二人とキャラが被らず、しかも各々の魅力を際立たせるには、なるべく長身で、しかも『ボーイッシュなタイプの男の娘』というのを考えていたらしい。
「女装するから男の娘なのに、ボーイッシュって矛盾してませんか?」
僕の指摘に、嶋村さんは困り顔で指を顎に当てる。
「そうなんだけど……それぞれのキャラを立てるには、そういう方向性がいいなって思って」
「だから僕に声をかけた、と?」
「あなたは背が高くてショートカットだから、イメージにぴったりだったし」
女になってからまだ数週間だし、髪の毛もそんなに伸びてはいないから、そういう印象があるのだろう。僕としては短い方が手入れも楽だし、他の女子みたいに長く伸ばすつもりはない。
「あなたにはキャラだけでなく、コスチュームもそれっぽいイメージで行こうと考えてるの」
「どうしても僕をスカウトしたいんですね?」
「あなたはあたしが望んていた……いえ、それ以上の逸材になってくれると確信してるわ」
ここまで根気よく、真摯に説得してくる嶋村さんの態度に、僕も心が揺れてくるのがわかった。でも受け入れるには、色々とためらいもある。
元々僕はお金が必要だから働こうと思ったわけだが、応募したところは全部不採用だった。その直後に偶然とはいえ、誘ってもらえたのはありがたいはずだし、ラッキーだとも言える。それでも僕が気になるのは、コスプレみたいなメイド服を着せられてまで働かなくてはならないのか、そしてTSである僕が男の娘達と一緒になって働いていけるのか、この二つだ。
はき心地は悪くないけど、制服のスカートは仕方ない。でも、メイド服みたいな可愛らしいミニスカートはどうなんだ。嶋村さんが言うには、僕にはボーイッシュなコスを着せたいらしいけど、それだってどういうものかまだわからないし、不安は残る。
TSの僕は体が女だから、女装している男の娘から見ても、自分達とは違うと思われるだろう。最悪の場合、一緒に働く仲間だと認めてくれないかも知れない。これも嶋村さんは『この店はホワイト企業だから』って言ってるけど、実際のところはどうなのか。
僕が逡巡していると、まだ開店前なのにドアが開いて、誰かが入ってきた。
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