第六十七話

 午後の会場内は、気温と湿度が最高潮に達していた。混雑も激しさを増して、人とぶつからないように歩くのが困難なほどだ。

 僕は取り巻き達を引き連れて、記念撮影をするためにコスプレフォトスポットのあるエリアへ向かっていた。後ろには倉石君と社交的女子、さらに新島まで付いてくる。

 人混みの中を進んでいると、時折得も言われぬ悪臭が鼻につく。汗とかの体臭だけでなく、衣服からの生乾きの臭いも混じり合い、不快さに顔をしかめたくなってしまう。

 これが先生の言ってた『夏コミケにおける悪臭』なのかと、ようやく思い知らされた。隣に来た新島が、眉をひそめて言う。

「コミケって、なんか臭いですね」

「あんまり大声出すな。人に聞かれたら嫌な気分になるぞ」

 たしなめてはみたが、新島の言葉は否定できない。背後を歩く取り巻き達からも、悪臭についてヒソヒソとささやきあっているのが聞こえてくる。

 そういえば社交的女子は、取り巻き達に前もって『悪臭』のことを伝えておかなかったのだろうか。振り返って問いただそうとしたら、いまだに彼女は先生から頂いたポストカードを陶酔したように眺めつつ、おぼつかない足取りで歩いていた。あの状態だと、多分何を聞いても上の空で返事さえしないだろう。

 ようやくコスプレフォトスポットの前に来ると、僕は取り巻き達との記念撮影に臨む。倉石君はカメラマン役として、彼女達のスマホを借りて、代わりに撮影してあげることになった。

 最初は一人ずつツーショットで、次は親衛隊または突撃隊といった派閥同士で、取り巻き達はカメラに収まっていく。舞い上がっている彼女らは、倉石君のことを『サークルに所属するヘルプ要員』みたいに思っているのか、少しも気にする様子はない。また倉石君も以前の説得を受けて、卑屈な態度を見せることなく仕事をこなす。

「姉貴、俺もツーショットいいですか?」

 新島まで自分のスマホを取り出してきた。渋々許可を出すと新島は倉石君にスマホを預けて、僕の隣に並ぶ。倉石君もわずかに不満げだったが何も口には出さず、僕達を撮影した。

 返してもらったスマホの画面に映る写真を見て、新島はガッツポーズを取る。

「これで姉貴との思い出ができました。もう最高っす!」

 そんなもの、こいつとの間に作りたくなかった……それが今の偽らざる感想である。

 全員の記念撮影は終わったわけだが、その間に社交的女子は一切関わろうとしなかった。また、先生からのオマケが口封じとして効いているのか、倉石君にも接触せず、少し距離を置いて立っていた。

 まだともみさんとの交代には時間があったので、倉石君の案内で今度は屋上展示場にあるコスプレエリアへ行ってみることにした。社交的女子と取り巻き達、新島も同行する。


 建物の四階にある屋上展示場コスプレエリアは、とても視界がひらけており、遠くに海や港湾施設が見渡せた。海が近いから風はあるが、涼しさには無縁なくらい熱気を帯びている。今朝開場する際に見た、逆さまの四角錐が四つ繋がった大きな建物がすぐ目の前にあり、より迫力が感じられた。

 エリア内は渋滞と言っていいほどの人混みで、そこかしこでコスプレイヤーへの撮影が行われていた。僕にも参加者から立て続けに声がかけられ、撮影に応対する。

「徳田さんって、初めての割に人気あるんじゃない?」

「先輩はスタイルいいから目立ちますね~」

 そばで見ていた取り巻き達が、感心したような顔になっていた。

 最新作アニメや大人気ゲームのキャラを演じたコスプレイヤーには、参加者が群がるように取り囲んで撮影している。また、同じアニメやゲームのキャラに扮したコスプレイヤーが集合して、一緒に撮られていたりもする。他にも僕がよく知らない漫画や昔のアニメ・ゲームキャラに扮している人達もいて、扱うネタの多彩さにコスプレの奥の深さを思い知らされてしまう。

 さらに、キャラと言うよりネット上で流行ったネタをテーマにしたような、明らかにウケ狙いなコスプレイヤーもいて、皆で思わず吹き出してしまった。そんな僕に、背後から太い男の声が気さくに話しかけてくる。

「もしかして、その▽▽コスはヴァンタンさんの作った物じゃないか?」

 振り返って、思わずギョッとした。相手は同じソシャゲの◇◇に出てくる、◎◎のコスプレイヤーだった。だが◎◎とは女のキャラであり、それを僕より遥かに背が高く、鍛えられて引き締まった肉体を持つ男が扮しているのだ。男の娘キャラの可愛らしさを体現しているともみさんと違って、彼のコスプレは男性的な筋肉を全面に押し出しており、あまりのギャップの激しさゆえ、単なる女装の域を遥かに超えていた。

 取り巻き達もその異様さに怪訝な目を向けていたが、彼の態度は堂々としており、爽やかな笑顔まで浮かべている。そんな彼が僕をひと目見て、ヴァンタンさんの名前を出してきたということは、何らかの繋がりがあるのだろうか。

「確かにヴァンタンさんから作っていただきました」

「やっぱりそうか。今回、▽▽のコスを作ってから引退するって聞いてたし、そうじゃないかと思って」

「お知り合いですか?」

「実は俺も、あの人にコスを作ってもらったことがあってね」

 その言葉でやっとわかった。この人がヴァンタンさんやともみさんの言っていた、『長身で筋肉質な体格をしていながら、あるソシャゲの武闘派タイプの女キャラに扮して、会場内で注目を浴びていた』伝説的な男性コスプレイヤーだと。でもまさか、この場で出会えるなんて思わなかった。

「噂はヴァンタンさんから聞いてました。今でもそういうコスプレなんですね」

「うん。俺も最後はあの人に作ってもらいたかったよ」

 二人で話をしていると、気づいた参加者達が写真を撮ろうと集まってきた。人だかりの中、僕達はそれぞれポーズを構えてみせる。

 自分の筋肉質な体格を強調するようなポーズを取り続ける彼は、撮影者以外の周囲からも注目の的だ。しまいには取り巻き達や新島、さらに倉石君もスマホで僕達を撮影していた。

 それにしても、長身かつ筋肉質でありながら女装コスをしている彼の、その隣にいる僕がTSだなんて、倉石君達以外には誰も気がついていないんだろう。その方がいいんだけど、かなり矛盾した状況ではある。

 一通り撮影が済むと、彼は別の場所へ移動していった。そばに来た倉石君が、汗ふきシートが入ったパックを差し出す。

「あの人って、超有名だよね。一緒に写ったんだから、君も噂になるよ」

「光栄だけど、やっぱり照れくさいな」

 一枚取ってから額に浮かんだ汗を拭き取ったが、またすぐに汗がにじんでくるのがわかった。これ以上、炎天下にいるのは限界に感じられたし、新島はともかく取り巻き達のことも心配だ。彼女達を誘って、日の当たらない屋内へ移動することにした。

 さらに社交的女子に声をかけようとして、妙な様子に気づく。僕達に背を向けて立つ彼女は、暑い海風にあおられたかのように、わずかに身体がふらついている。

「そろそろ移動するぞ」

 声をかけて振り返った彼女の目は、すでに焦点がぼやけていた。そのまま彼女が倒れ込もうとしたので、抱きかかえる形で支えに入る。

「おい、どうした!? しっかりしろ!」

「……あ、ああ」

 こっちからの呼びかけに、あえぐような声だけが返ってきた。半開きになった口で、荒く呼吸を繰り返す。

 異変に気づいて倉石君が駆け寄ってきた。

「熱中症か?」

「そうみたいだ」

「とりあえず冷やそう」

 持っていたバッグから瞬間冷却剤を取り出した倉石君は、コンクリートの床に置いてから袋を強めに叩く。内袋が破れて冷却が始まった冷却材を再び拾うと、社交的女子の額にあてがう。

「これで足りるか?」

「体も冷やした方がいい」

「わかった」

 倉石君は瞬間冷却剤を二つ出して、同じように床の上で叩いてから、社交的女子の両脇に挟み込む。こうすれば体全体も冷やされることは、前もって二人で調べてあった。また彼は僕のために用意していたはずのタオルも取り出し、彼女の顔に被せる。

 一応は頭と体を冷やしてみたが、強烈な陽射しの下では効果がないように思えた。やはり一刻も早く、ここから移動させるべきと考えた僕は、倉石君に問う。

「救護室はどこだ?」

「一階だ。そこへ運ぼう!」

 僕は倉石君と共に社交的女子の全身を抱きかかえると、一気に持ち上げた。そばで立ち尽くしていた新島を呼ぶ。

「彼女を連れて行くから、荷物とかまとめて持ってこい!」

「合点!」

 我に返った新島が社交的女子や倉石君の荷物をかき集めていた。僕達は人の波をかき分けるようにして、救護室への移動を開始する。


 階段やスロープ、エスカレーターを経由して一階までたどり着いた僕達は、そのまま救護室まで社交的女子を運び込んだ。室内には白衣を着た看護師達がおり、彼らの指示に従って、壁際に沿って床に敷かれたマットの上に彼女を寝かせる。

 マット上には、他にも十人以上の人達が横になっていた。一般参加者だけでなくコスプレイヤーもいる。この暑さだから、気分が悪くなってしまった人が続出したみたいだ。

 倒れた直後と比べて、社交的女子の容態は大分落ち着いていた。手当を施した後で、看護師が説明してくる。

「軽い熱中症です。意識もあるし、しばらく休めば回復するでしょう」

 僕と倉石君は、安堵した顔を見合わせた。

「どうなることかと思った」

「冷却材、多めに用意してて正解だった」

 倉石君としては、僕が熱中症になった時のために備えておいたはずだけど、こういう状況で使用するとは微塵も想定しなかっただろう。

 夏コミケには何度も参加しているはずの社交的女子が、『取り巻き達を熱中症にはさせない』とまで豪語しておきながら、自分がそうなってしまうとは皮肉な話だ。とはいえ病人に対して、そんなことを責めるのは酷である。僕だって、そこまで彼女が憎いわけじゃない。

「姉貴~、俺はいつまでこれ持ってればいいんですか?」

 二人分の荷物を抱えた新島が、困ったようにしてそばへ来た。倉石君は自分のバッグを受け取り、僕は社交的女子のカバンを、横になっている彼女の隣に置く。

 その時、社交的女子は頭を傾けて、僕に目を向けてきた。何か伝えたいことがあるようだから、腰を下ろして耳を傾ける。

「……ごめん、あんた達に迷惑かけた」

 この女から、ここまで素直な謝罪の言葉を聞くとは思わなかった。か細い声だし、精神的なショックも大きいのだろう。

「もういい。少し休んでろよ」

「先生からプレゼントいただいて、舞い上がっちゃった……先生にも、申し訳ないことしてしまった」

 この期に及んで、そんなことまで気にかけてもしょうがないだろうに、先生に対してはどこまでも律儀なやつだ。

「気にするな。先生も責めたりしないさ」

 そう言って立ち上がると、僕は倉石君と新島の元へ行く。時計を確認すると、ともみさんとの交代時間をかなり過ぎている。社交的女子のことは看護師に任せて、サークルスペースに戻ることにした。

 救護室の外に出ると、取り巻き達が集まっていた。彼女達は社交的女子とは必ずしも友達だというわけじゃないが、急に倒れたとあっては心配にもなるようだ。僕は看護師から聞いた説明をそのまま話し、最後にこう付け加える。

「皆も言いたいことはあるはずだけど、彼女だって好きで熱中症になったわけじゃない。そのことで彼女を責めないように。いいね?」

 彼女達は神妙に頷いていた。


「おかえり。色々大変だったみたいで、お疲れさまだよ」

 クタクタになって戻ってきた僕と倉石君プラス新島へ、先生がねぎらいの言葉と共にゼリー飲料と塩タブレットを渡してくれた。途中でともみさんが僕のスマホに連絡してきたので、予め事情を説明しておいたのである。

 ともみさんも、店によく来る客でもある社交的女子が倒れたとあっては、かなり気にかかるようだ。ゼリー飲料を飲み干した僕に、改めて尋ねてくる。

「休めば回復するって聞いたけど、家まで帰れそうかい?」

「他の子もいるから大丈夫とは思いますけど、後でもう一回様子を見に行きます」

 すると先生が、『私も同行する』と言いだす。

「私のせいではないにしても、わざわざ買いに来てくれたんだから、お見舞いしておきたいよ」

 先生も先生で、自分のファンでもある社交的女子に対しては律儀な態度であった。僕は感服するしかない。


 十五時半を過ぎると、会場から参加者達が徐々に退出していくのが見えた。それでも熱気のこもる場内には、未だ多数の人達が残っている。そんな中を僕と倉石君は先生と共に、社交的女子のいる救護室へと向かう。

 途中で常連の二人組に遭遇した。今日は十六時頃から一部で撤収作業が始まるということで、それに合わせて各サークルも退出を始めるはずだ。残り三十分もないのに、二人はギリギリまで同人誌購入を続けるつもりらしく、最早情熱を超えて執念としか例えようがない。

 彼らと別れて救護室に入ると、まだ社交的女子は室内にいた。取り巻き達に囲まれて上半身を起こしていた彼女は、先生の姿を見ると慌てて立ち上がろうとする。

「先生! わざわざ来てくださるなんて……」

「大丈夫? 無理しないでね」

 先生は膝を付いて、社交的女子と同じ目線の高さに合わせた。

 いたわりの言葉をかけられて、社交的女子は申し訳無さで身体を縮ませていた。最後に立ち上がると、先生に対して深く頭を下げる。

 体調もある程度回復したと言うので、社交的女子は帰路につくことになった。僕は取り巻き達に、『せめて彼女の家の最寄り駅まで送ってほしい』とお願いする。

 救護室を出て会場の最寄り駅まで歩いていく社交的女子達を、先生と一緒に見送った。あの女の背中からは、昼過ぎにサークル前に現れた時のような覇気は失われていたが、足取りだけはしっかりしているようだ。取り巻き達もいることだし、なんとか家までは帰れるだろう。

「戻ろうか」

 先生に促されて、僕達もサークルスペースへと歩き出す。着く頃には十六時になっているだろう。僕とともみさんは着替えに入り、倉石君は先生を手伝って撤収作業をする手筈になっていた。フェアリーパラダイスで行われる打ち上げにも間に合わせたいから、せめて十七時までには会場を後にしたい。

 会場内には、まだコスプレしている人と、それを撮影する参加者達がいた。僕にも声がかけられたので、立ち止まると決めポーズで応じる。

 僕にとって初めてのコスプレは、楽しい思い出の方が多かった。年末に行われる冬コミケでもコスプレするつもりはないが、機会があったらまたやってみたいぐらいには思っている。でもそれは、倉石君がそばにいてくれたからこそだ。

「初めてサークル参加したけど、こんな長い一日になるとは思わなかったよ」

 その倉石君がつぶやいた言葉に、僕は深く同意してうなずく。今日は暑くて大量に汗をかいたし、疲れも感じている。先生が仕事場にあるシャワールームを使わせてくれると言うので、早くさっぱりしたかった。

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