第三節 もう一人のTS
第三十九話
カフェオレを二つ、中央のテーブルに運び、アップルパイを奥の席に出し、帰った客の食器を片付けに厨房に入る。
七時五十分だった。休憩は終わったばかりなので、後は閉店まで働くだけだ。
店内に戻ると、ともみさんが常連の二人組と新作アニメの話をしているのを聞きながら、椅子の位置などを直した。
やがて出入口のドアがゆっくりと開いた。近くにいた僕が出迎えに回る。
「おかえりなさいませ、御主人様」
一礼した僕の鼻先に、むせ返るような香水の匂いが漂う。
入ってきたのは、一人の女性客だ。見るからに濃厚な化粧を施した彼女は、肉感的な身体をボディコンシャスなスーツで包み込み、背中まで届くロングヘアを明るいブラウンに染めている。
空いている席に着いた彼女へ、改めて挨拶する。
「当店のご利用は初めてでしょうか?」
「ええ。でも、この手の店の作法とかマナーはわかってるわ」
ややハスキーな低めの声で相手はうなずいた。胸元のペンダントや耳のピアスが、店の照明を浴びてきらめいている。
僕が簡潔にルール等を説明すると、彼女はホットコーヒーを注文した。
厨房でコーヒーの用意をしつつ、女性客のことについて考えてみた。一見するとアラサー……三十歳前後で、おそらく店長の嶋村さんと同年代だろう。髪の色や綺羅びやかなアクセサリー、何より強烈なコロンの香りが印象に残る。僕を含めてこの店で働く人達は、客の食事の邪魔にならないよう、無香であることを心がけているから、余計匂いが鼻についてしまう。
淹れたてのコーヒーを、女性客の席へ運ぶ。袋入りの砂糖を半分だけ入れてから、彼女は一口すする。
休憩を終えた絵舞さんが、ともみさんに代わって常連達のお相手をしていた。ともみさんは別の客から注文を受けていた。
カップを置いた彼女が、正面の僕を興味深げに見上げる。
「ところで、この店って男の娘メイドが働く喫茶店よね?」
「左様でございます」
「他の子はともかく、あなたは『王子喫茶』とか『ギャルソン喫茶』で働くような格好だけど、本当に男の娘なの?」
その二つは、『男の娘メイド喫茶』であるフェアリーパラダイスとは逆に、女性店員が男装して接客する喫茶店のことだ。メイド服のともみさんと絵舞さんとは違い、僕が黒一色のベストとキュロットに黒ニーソといった男っぽい出で立ちだから、そういう疑問を投げかけたのだろう。
「わたくしは、ある王国の王子でしたが、朝おんしてTSになったために王国から追放されて、今は男の娘メイドに身をやつしているのです」
店でのデビュー以来、何度も口にしたキャラ設定だった。大抵の客は一笑に付すか、『へぇ……そういうキャラなんだ』とか言ってうなずくだけだったが、彼女の反応は違った。
相手は目を見開いて、真っ直ぐに僕の顔へ視線を向けていた。あまりにも長く見つめてくるものだから、少し不安になってくる。
「あの……わたくしの顔が何か?」
さり気なく問い質すと、突如彼女は吹き出したような笑い声を上げる。
「あはははは! そう、あなたが……実に面白いわ。まさかこんな場所で、そういう言葉を聞くとは思わなかった」
「そうなのですか」
「でも、決してバカにしてるわけじゃないのよ。あなたの気に触ったら、謝るわ」
「いえ、お気になさらず」
愉快な気分ではないけれど、謝意を表したことだし、これ以上は何も言わないことにした。
その後は他の客の相手に回ったが、ずっと彼女が僕を眺めていることが感じられて、落ち着かないものがあった。同時に、レジにいた嶋村さんが、時折彼女に不審げな目線を送っていることも気になった。
閉店後、モップで床掃除をしていると、少し思いつめた表情の嶋村さんが話しかけてきた。
「今夜、八時前に入ってきた女のお客様だけど、気をつけた方がいいと思う」
「どういうことですか?」
僕はモップを動かすのを止めて、相手を見る。
「あの雰囲気からして、水商売やってる人でしょうけど……なんか怪しい感じがするのよね」
水商売と言うからには、大人の客相手に酒を飲ませる店で働いているということだから、あれほど派手な外見なのも納得がいく。
「一体、何を気をつけろと?」
「昔の話だけど、あんな感じの人がお客様としてやってきて、当時働いてたメイドの子を自分の店に引き抜いていった事があるのよね」
「そんなことが……って、ちょっと待って下さい。今、『メイドの子を引き抜いた』って言いましたよね? なんで男の娘をそんな店に?」
慌てて聞き返したら、嶋村さんが辛そうに眉根を寄せた。
「後でわかったんだけど、そのお客様って『ゲイバー』に勤めてた人で、うちにいた男の娘メイドに、『ニューハーフ』候補として目をつけてたみたいなの」
「……じゃ、さっきのあの人も……まさか?」
「なんか雰囲気とかが似通ってるし……それで当時のことを思い出したってわけ」
「うーん……」
僕は驚きを隠せなかった。けれど、あの人は女にしては声が低くかったし、本当にニューハーフだとしても不思議はないのかもしれない。
「もしかすると、相手はいずれあなたが大人になった時に引き抜こうと思って、目をつけてるのかもしれない。でもあたしは水商売っていうか、ゲイバーを否定してるわけじゃないの。もし、そっちの方で働きたいって言う男の娘メイドがいたら、本人の意志だから止めることはできない。でも……」
嶋村さんがくいっと顔を上げて、僕の目を見る。
「あなたはまだ未成年。しかもご両親から同意書をいただいてるから、店長のあたしはあなたを預かっている立場にある。そんな若いあなたを、言葉巧みにゲイバーへと引く抜くつもりなら、あたしだって見逃すわけにはいかないわ」
「僕だって、この店以外では働きたくないです」
バイトを立て続けに断られた僕を、フェアリーパラダイスの店長である嶋村さんがスカウトしてくれたのだから、彼女には恩義がある。だから僕は、きっぱりと言った。
初めて嶋村さんが安心したような笑顔を向けてくる。
「そう言ってくれると嬉しいわ。ともかくあなたも、そういう相手には注意しておくのよ」
嶋村さんはレジの方へと移動していった。僕も残りの床掃除を再開する。
帰りの着替えの時、ともみさんや絵舞さんとの間で、ゲイバーとかニューハーフの話題が出た。
絵舞さんに、『そういう店に引き抜きされそうになったことがあるか』と尋ねたら、こんな答えが帰ってくる。
「まだそういう経験はありませんけど、もしそんな話が来ても、お断りすると思います」
「やっぱり、この店が好きだからですか?」
「それもありますけど……実は私、お酒に弱いんです」
困ったような笑顔を絵舞さんは作った。
「少しお酒を飲んだだけで、すぐ顔が真っ赤になって酔っ払ってしまうので、そういうお店は体質的に無理ですね」
もちろん男の娘に関連して、ニューハーフにも大いに興味はあるけれど、酩酊した状態では観察もできなくなるので……と、実に絵舞さんらしい言葉で締めくくってくれた。
ともみさんにも同じ質問をすると、『ボクもまだないよ』と答えてから、こう続ける。
「ボクは人を喜ばせることが好きだから、そういう店で働くこと自体は、それほど嫌じゃない。けど、この店でボクがやってることは、通用しないだろうな」
「オタクな話ができないってことですか?」
「そうだね。そういう店に来る客は、オタクな趣味とかに興味ない人が多いだろうから、ボクが勤めるのは難しいかもね」
意外と客観的に自分のことを把握しているともみさんに、僕は感心したものだ。
ちなみに昔、フェアリーパラダイスで引き抜きが起きた後、当時から常連だった遊井名田先生に、嶋村さんが人手不足の悩みを打ち明けたことがきっかけとなり、そこから先生に紹介されて働くことになったと、ともみさんが打ち明けてくれた。
店のことを自作の小説で取り上げて、来客を増やしただけでなく、ともみさんまで紹介してくれたのだから、先生は二重の意味で嶋村さんの恩人ということになるわけだ。
僕としても、二人のどちらかが欠けたなら、この店で働くのが困難になるわけだし、引き抜きに応じるつもりがないことがわかって、一安心していた。
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