第三十一話

 ともみさんは氷水が入ったコップを用意して、僕達の前に戻ってきた。

「さて、始めようか」

 再び皆の期待が昂ぶる中、ともみさんが水を口に含む。

「あの頃、ボクは森野宮高で、演劇部に所属してた。三年生の時、文化祭で上演する芝居について、部員達と打ち合わせをしていたんだ……」

 一瞬、ともみさんが遠くを見るような目をする。


「当時の演劇部は男ばかりの十人だけで、ボクを含めて三年生が半数だった。ボク達が卒業すれば、部員が半分になって、正式な部活として認められなくなる可能性があったんだ」

 同好会へと格下げになるのを危惧した当時の部長は、来年度に向けた新規の部員勧誘と活動実績を作るために、文化祭での芝居に部の総力を上げて取り組むことにした。そこで部長が企画したのは、昔の先輩部員が上演したオリジナルの劇を、自分達でリバイバルしようという案だった。

 二十年以上前に上演されたその劇は、当時は評判が高く、しかも新入部員の増大にも繋がったこともあり、それにあやかろうというのが部長の考えだった。さらに登場人物は五人だけで、残りを裏方に回すことができるので、現在の部員数だけでも実行できそうだと、彼は考えていた。

 他の部員達も賛成したが、そこで問題が一つ持ち上がった……ともみさんが人差し指を立てる。

「その劇では、必ず女役が一人、必要だったんだ」

 主人公の妻というのが、その役だった。脇役は女を男に替えても成立可能だったが、妻の役だけは女でなくてはならない。そこをどうするかで、部員達は悩んでいた。

 その時、部長が思いついたのが、部員の中で一番色白で童顔だったともみさんに、女役をやらせるというアイディアだった。最初は面食らって、ともみさんも拒絶したが、部長からの説得で渋々ながらも受け入れざるを得なくなった。

 物は試しということになり、ともみさんはメイクの得意な部員から化粧を施されて、部室にあった女子の制服を着せられた。鏡に映ったその姿は、我ながらショートカットな本当の女子みたいだと、ともみさんには感じられた。同時に、自分がこんなに女らしくなれるのかと、息を呑むほど驚いたのだという。

「その時、言ったのさ。『これがボク?』ってね」

「出た! 初女装した男の娘の決めゼリフ!!」

「オレもその場に居合わせたかったよ~」

 常連達が歓喜で湧き上がっていた。

 TSである僕も、初めて女の下着や制服を着た時に、同じセリフを言ったものだ。それまでは、女みたいになるとか女そのものになるなんて想像すらできなかったのに、いきなり女物を身に着けて、しかもそれが妙に似合っていたり、ましてやエロかったりすれば、そういう言葉が出てしまうのは当然なのかもしれない。

「それがともみさんの、男の娘としての目覚め……ということになるのでしょうか?」

 絵舞さんの問いかけに、ともみさんは軽く首を横に振る。

「今、話したのは初めての女装で、男の娘として覚醒していくのはここからさ」


 文化祭での上演に向けて、芝居の練習にセットや衣装の用意など、部員達は準備を重ねていった。ともみさんも女役を演じるために、自分なりに研究をしていた。

 それとは別に、ともみさんの女装を目の当たりにして以来、部員達の様子に変化が現れたらしい。今までは、ともみさんに対してラフな態度だった部員達が、口調が優しくなったり、笑顔を絶やさなくなった。さらにリハーサルでともみさんが女装すると、相手役の男子だけでなく、裏方を担当する部員達まで嬉しそうなのがわかった。

 最初はともみさんも違和感があったけど、部員達が和気あいあいとして部活に取り組んでいく姿を見て、ひょっとしてこれはいい変化じゃないか……そう考えるようになったという。

「ボクが女装することで、皆の気持ちがまとまって、一つの目的に向かって進んでいくんだから、女装ってすごいと思ったものさ」

「皆がそうなってしまうほど、ともみさんの女装姿が可愛かったということですか?」

 僕がたずねたら、ドヤ顔でともみさんがうなずく。

「確かにボクは初めて女装した時から可愛かったからね……というのは冗談としても、ボクの女装で皆が喜んでいるのを見るのは、悪い気はしなかったな」

 もう一度、ともみさんがコップの水を飲んだ。


 文化祭の当日、午後から行われる上演の前に宣伝しようということで、出演する部員達が舞台衣装のままで校内を練り歩くことになった。もちろん、ともみさんは女装である。

 スカート姿のともみさんには、生徒達から好奇の視線が集まった。笑ったりする奴もいれば、うっとりと眺める人もいた。しかも、後をついてくる者まで現れ、完全に注目の的となっていた。

 宣伝の効果は抜群で、午後になると会場である体育館のステージ前には、大勢の観客が集まった。部員達の緊張が高まる中、いよいよ演劇部の芝居が幕を切って落とされた。

「劇そのものは、多少のハプニングはあったけど、なんとか最後まで乗り切った。終わった時は拍手喝采で、ボク達は心から安堵したものさ」

 その瞬間を思い出したのか、ともみさんがしみじみとした笑顔になっていた。常連達は深く聞き入っている。

「いい話だな~」

「この成功体験が、ともみちゃんの男の娘としての目覚めなんだね」

「いや、実はもう一幕あるんだ」

 ともみさんが人差し指を立てて、左右に振る。


 文化祭が終わった後も、ともみさんを含めた三年生の部員達は、部室に集まった。目的は、ともみさんの女装だった。

 部員達は完全に、女装したともみさんのとりこになっていた。そしてともみさん本人も、女装の喜びに覚醒していた。初めの頃は、女子の制服を着たともみさんと、一緒に放課後の校内を歩いたりしていたが、徐々に状況はエスカレートしていく。

 ついに土日には女装したともみさんを連れて、遊園地や映画館、さらにゲームセンターやショッピングモールなどへ、部員達で繰り出すようにもなった。集団でのデートだから、彼らとの関係は清純なものであり、ともみさんも特定の個人と仲を深めたりせず、平等に接するよう心がけていた。

 ともみさんが男子であることは、部員達は承知の上だった。それでも彼らは、ともみさんを女子として扱い、一緒に遊んでいられることを、心の底から楽しそうにしていた。そんな姿に、ともみさんの心境にさらなる変化が訪れる。

 確かに、自分が女の子みたいに可愛らしくなれるのは楽しいことだ。けれど、そんな自分の姿に喜んでいる人達を見るのは、もっと嬉しく思えた。部員達との女装デートを経て、ともみさんは自分の可愛らしさで、皆を喜ばせたいと確信するようになる。

「だからこれが、ボクの『男の娘としての目覚め』になったんだ」

「おお~、何というサービス精神!」

「皆に喜びを与えるために、男の娘になったとは、さすがともみちゃんだ!」

 腕組みした常連達が、大いに感心していた。同じように感じ入った表情の絵舞さんが、確認するように問う。

「そういう思いがあるからこそ、コスプレしたり、この店で働くようにもなったのですね?」

「うん。コスプレを本格的に初めたのは、卒業してからだけどね」

 高校を卒業したともみさんは、自分の可愛らしさを生かして、コスプレにも手を出すようになった。コミケなどで男の娘キャラに扮していると、カメラを構えた人達が、喜んで写真を撮ってくれる。それが嬉しくて、時には凝ったポーズをサービスしたという。といっても、それは健全の範囲内でのことだと、付け加えるのは忘れなかった。

 何度もコミケに参加しているうちに、あの遊井名田先生と知り合うきっかけができて、ともみさんもサークルに参加することになった。その先生から紹介される形で、このフェアリーパラダイスで男の娘メイドとして働くようになったのだという。

「可愛いメイド服を着られて、それで御主人様を喜ばせることもできて、しかもお金までもらえる……ボクにとって、男の娘メイドの仕事は、天職だって言えるね」

 話を締めくくったともみさんは、残りの水をゴクゴクと飲む。

 語ってくれた内容は興味深いものだったし、ともみさんの口ぶりも澱みなかったので、僕も楽しく聞いていられた。それに、女装で人を喜ばせるのが嬉しいのだから、人目がない普段ではスカートをはいたりしないのだと、ようやく納得がいく。

 とはいえ、僕にはどうしても気になることがあって、問い質さずにはいられない。

「お話してくださったことはありがたいのですが、当店には『メイドはプライベートなことを話してはならない』というルールがあります。ともみさんが自分の過去を話したことは、ルール違反に当たるのではありませんか?」

「そこに気づくとは……ボクが今まで話したことは、すべて真実だと思っているのかい?」

 コップを置くと、ともみさんが邪悪な笑顔をひけらかす。絵舞さんや常連達も、意外な展開に戸惑いを隠せないでいる。

 そんな風に言われたら、僕としても念を押さざるを得ない。

「では、今までの話はすべて嘘だったと……?」

「全部がウソ、とは言わない。だけど、皆を楽しませるために、色々話を膨らませてあるのさ。だから、これは完全なプライベートではない……どこまでがウソで、どこからが真実か、それは自分で判断してね」

「そんな! ともみちゃんを信じてたのに」

「どうせ騙してくれるなら、死ぬまで騙してほしかった~」

 常連達は失望に嘆いていたが、絵舞さんは眉根を寄せて苦笑している。

「あれほど盛り上げておきながら、こんなに落とすなんて……ともみさんはエンターテイナーですわ」

「エンターテイナー……僕の一番嬉しい言葉だ。ありがとう!」

 胸を反らせつつ、両手を腰に当てたともみさんの顔は、してやったりという表情そのものだ。

 僕としても、ここまでされると、怒るどころか力のない笑いしか出てこなくなる。逆に、今までともみさんの話に、一切口を挟むことなく聞き入っていた倉石君は、呆けたような顔になっていた。

「ところで、今の演劇部って、どんな活動してるんだい?」

 ともみさんから質問された倉石君が、何故か申し訳無さそうに目を伏せる。

「実は、部員だった人達が全員卒業して、新入部員もいなかったので……廃部になりました」

「マジ!? そんな事になってたなんて……!」

 初めてともみさんの顔に驚愕と狼狽の色が表れた。僕だけでなく、絵舞さんや常連達も、こんなどんでん返しが用意されているとは思わず、文字通り絶句するしかない。


「……ともみさん、元気ないね」

「ええ、あんな姿を見たのは初めてです」

 倉石君とそんな言葉を交わしあった。

 あの後、絵舞さんと常連達が気を使って何か話しかけたりしたが、ともみさんは曖昧に相槌を返すだけだった。倉石君は、まだ二回しか会っていないはずだけど、そんな彼にもわかるくらい、ともみさんは肩を落としている。

「もしかすると、ともみさんが話してくれたのは、全部本当のことだったんじゃないかな」

「少なくとも、森野宮高で演劇部に所属していたのは、事実だったのでないかと思われます」

 僕達の前を、ともみさんがふらついたような足取りで食器を厨房へと運んでいく。その横顔から、気の抜けたつぶやきが聞こえてくる。

「……ボクの青春が、消えてしまった……ああ」

 あまりの痛々しさに、僕達は声をかけることもできず、ただ見送ることしかできなかった。

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